三.たてがみ ⑨
「ママ、今日はよか人を連れてきたとよ」
「まあ、うれしいこたあるわね。こちらどなた?」
「――さんの上司」
早瀬はカラオケの音で聞こえにくいので、
「誰の上司って?」と聞き返した。
「あそこでお客さんと歌っとるとじゃなかと」
スポットライトを浴びて歌っているミニスカートは、生駒であった。
「ええ!」こりゃーまずいんではないか、と一瞬めまいがする気がした。
「びっくりしたと。彼女のおばしゃんの店ばってん」
「真弓がいつもお世話になっていまして」
「ママ、今夜はその言葉はいかんとよ」
「なして?」
「このまえ会社でね、いろいろあって、その『いつもお世話になってます』という常套語は禁句たい」
「まぁ」ママは少し睨むように、しかし微笑みながら早瀬を見つめた。
目の前でよく見るとママは映画「ショコラ」で観たジュリエット・ビノシュに似た美人である。
「堀君」
「まあまあ、次長」
「ここはだめだよ。先日、話があったばかりだというのに」
早瀬はボックス席でにぎやかにやっている若い連中の顔を一人ずつ見ていった。
「県庁の皆さんよ」ママが小さな声でささやいた。堀も店の中を見回して知っている顔、とくに社内の人間がいないことを確認しているようだった。
「大丈夫。任しとかんと。ママ、実はね、また会社で投書が有ったと、次長が真弓さんとの仲を疑われたたい」
「おいおい、それぐらいにしろよ。行こう」
「次長さん、いま来てもう帰ろうてあるもんな。それに、うちの真弓じゃ相手に不足ばってん」
「相手に不足とはどういう意味?」
いつのまにかカラオケが終わったらしく生駒が後ろに立っていた。
「次長、先日は私のことでご迷惑をおかけしたそうで、申し訳ありません」生駒は両手を前にして丁寧にお辞儀をした。
「いやいや」早瀬はどぎまぎしながら答えた。
「堀君、帰ろうか」
「次長、何をおっしゃてるんですか。来てすぐ帰るとは卑怯よ」ママと同じことを真弓は言った。
「次長、ちょっとだけたい」堀がいままでの口調と変わって、哀願するように引き止めた。仕方ないなという感じでしぶしぶ同意し、スツールに腰をかけながら言った。
「じゃーちょっとだけ」
「わーうれしい」真弓は歓声を上げ、もう一度ぺこりと頭を下げた。
「改めまして、ご迷惑おかけしました」
「もう知っているの?」
「社内の出来事はすぐに分かるんです」カウンターの向こう側にまわった真弓は、ママに代わって水割りを作りながら言った。
「しかしインフォーマル組織がやけに発達しているんだな」
「社長を見習って、どこで誰が何をしているかすぐ分かるようになってるんです」
「本当かい。いやだねー」
「冗談ですよ。でも今日はうれしい」
「何かいいこと有ったの?」
「内緒」
「次長、あまりその子と話をしない方がいいたい」
「そうだな」
「ま、ひどいわね堀さん、そんなこと言って良いと思っとん? 次長、デュエットしましょう」
「いや、ぼくは音痴でね。それに知らない店では歌わないことにしているんだ」
「次長さん、そんな他人行儀なこといわないで下さい。もう身内と思っているんですから」ビノシェ似のママがボックス席から戻ってきて、アイスを出しながら口を挟んだ。
「また何を言ってんですか、身内だなんて、初めて来たんですよ。それこそ誤解を生む発言です」
「はいはい、分かったと」ママは笑いながらボックス席に向かった。
「次長、デュエット!」
「そうみんな揃って次長次長といわないでよ、プライベートタイムなんだから。この薄暗い中で次長という音がまたよくないね。まるで痔をわずらっているみたいじゃないか」
「次長は痔ですか?」
「違うよ、全く」
来てはならない場所ではあったが、酒の酔いも回ってきて気分は和んできた。しかし木下が見たら激怒するだろうなという思いも一瞬頭をよぎった。