十二.フィナーレ ⑧

それから1ヵ月ほど経過したころ、部内ミーティングをしていると、秘書の斉藤が「本部長からお電話がありまして、至急お越しくださいとのことです」とメモを手渡してきた。泰然自若、大物の風格がある本部長から「至急」とはただ事ではない。あとのテーマは次長に任せて不安を胸に抱いて階段を足早に降りていった。自分のした投書のことだろうか、逆に何か投書されたのだろうか、大きなクレームだろうか、真弓のことがばれたのだろうか、およそ思いつく悪いことはすべて頭の中を駆け巡った。

 本部長席の前に立つと、本部長は顔を上げてニコニコしていた。ほっとした、これなら悪い話ではないかもしれない。

「おお、早瀬君、応接室に入っててくれんか」

 豪華な応接室に入り、神妙な顔で座っていると本部長が笑顔で入ってきた。

「待たせたな。ま、そんな固い顔をしなくてもいいぞ」

「はい、御用はなんでしょうか」

「早瀬部長、本社に異動だ。マーケティング部長だ」

「え、本当ですか」頭の中に一瞬、真弓のことでなかったと安堵感が沸いた。

「本当も何も、こんなことで冗談は言わんよ。しかし君はまだここに来て1年にならんだろう。私としてはもう少しここにいて欲しかったな。君が来ていろいろな新しい改善に手を付け部内の雰囲気もよくなりやる気も出てきてるようだし、それにいろいろな試みはまだ軌道に乗ったともいえんのじゃないかと危惧しているんだが。それに例のQCもまだ発表会にまで達していない様だし」

「はい、おっしゃるとおりだと思っています。次長や課長初めみんなの協力と努力で、いろんなことに手を付けていますが、まだ完全にみんなの体に染み付いたとはいえないと思っています。できればあと一年はいまの部署でやりたいというのが私の本心ですが」

「そうだろうな。しかし知ってのとおり社長命令は絶対だからな、変えることはできんからな。決定した以上、後のことがうまく回るように手立てを考えていってくれないか。私ができることはするから」

「はい、わかりました。で、着任はいつですか、それと後任は」

「社長は明後日からとおっしゃたので、君といま話したような事情を申し上げて、一週間の猶予を下さったぞ。それでも短いかも知れんがこれが精一杯だ。それと後任は次長にしてもらうようにしていただいた。それは君のやり方を踏襲するためには本社から事情の全くわからない人物を置いたりしたら、もとの木阿弥になりかねんからな。わかってる、石川君は線の細いところがあって二〇〇人の部下を持つには負担が大きいのではないかと思っているのだろう」

「え、いや、そういうわけでは」

「実際のところ、ほかに適切な人物がいないんだよ。彼を育てるしかないだろう、私もこれからはケアするようにするから」

 早瀬はうれしいというより、非常に複雑な心境であった。せっかく始めたいくつかの試みの行く末を見ないで行くことだけでなく、マーケティング本部副本部長に昇進した木下の下にまたつくのかと思うと暗澹たる思いもあった。

 しかし、社長が評価してくださったことは大きな喜びでもあった。あの自分の進言で降格になるかと思ったが、結局受け入れてくれたようだ。本社で今度は部長として力を発揮できる。明るい気持ちを持つようにしよう。

 まずするべきことは次長に昇格の内示、そして一週間をかけて継続事項の定着を図る仕掛け作りなどするべきことは山のようにある。足早に階段を駆け上がり、自席に戻り窓から阿蘇山に向かって深呼吸した。

                                                                        完  

 

  

(この作品はフィクションであり、実在の個人、企業、団体とは一切関係ありません)

十二.フィナーレ ⑦

 二日後、堀から携帯に電話が入った。だいたい携帯で電話をかけてくるのは妻か真弓ぐらいなものなので、端末の表示に堀の名前が出ているのを見て一瞬、驚いた。

「部長、いまいいですか」

「なんだ君か、携帯に電話するとはどうしたんだ。ちょっと待って、廊下に出るから」早瀬は静かに、急ぎ足で廊下に出た。

「もしもし、いいよ」

「部長、投書されたんですってね」

「また、投書されたか、いやになるね」早瀬は以前の苦い記憶がよみがえった。

「いえいえ、部長が社長に」

「え、おれが」何のことを言っているのかわからなかった。

「いやですね、部長が投書制度について何か文書を出したんでしょ」

「あぁ、あれか」一昨日(おととい)、物流本部玄関横の投書箱に思い切って入れたのである。

「いまこちらでは嵐の前の静けさってところですよ」堀は心配そうな声であった。

「あれについては一度君と話したこともあるけど、やはりいつまでもあの制度を続けるわけには行かないだろうと思ってね。通常のルートで進言すると本部長にご迷惑がかかるので、投書制度のいい点、つまり社長が直接読むということに目を付けてね、十分考えた上でのことだよ」

「秘書課の話では社長はいつものようにご自分で投書箱を開けて、読んでいかれたようなんですが、物流本部からきた投書箱を開けたあと、顔色が変わったって言ってましたよ」

 早瀬は(これは降格かクビだな)と直感した。

「そうか」それだけ応えるのが精一杯だった。ちょうどそこへ斉藤が「部長、お電話が入っています」と探しながらやってきたので、堀からの電話を切った。

 いずれ社長か本部長か誰かから何かお達しがあるかと思っていたがその後、数日たっても何の音沙汰もなかった。堀にひそかに電話して聞いてみたが、その後社長は何も言わず社内は普通の状態だとのことであった。投書制度についての動きも見られなかった。

 1週間ほどして真弓に連絡を取り例の店で逢った。真弓が「結婚できる人は良い」と言っていたのが気になったのである。社長への投書のこともありそろそろ決着を付けねばと思っていた。水割りをグィっと飲んで、「もう付き合うのは止めよう」と思い切って言った。(泣かれたら困るな、大声出されたら困るな)という不安はあったが、どういうことだろう、真弓は泣きもせず、怒りもせず、もちろん笑いもせずに黙ってうなずいた。あとは何を言えばいいのかもわからず早瀬は黙っていた。真弓も黙っていた。ママも気配を察知したのか寄ってこなかった。この店では珍しく有線放送で演歌が次々と流れた。曲がたくさん流れた後、真弓は「もう帰ります。これまでありがとうございました」といって、寂しそうな笑顔で先に出て行った。早瀬は演歌を聞きながらまだしばらくそこに座っていた。 

十二.フィナーレ ⑥

「部長、外国人のようなんですが、代わっていただけますか」オペレーターの一人が遠慮しながら、しかし部長だから英語ぐらいしゃべれるだろうと当然のような顔で言ってきた。

「英語か」英語なら少しはわかる自信はあった。しかし電話の英語は表情が見えなくて難しいことも経験していたので躊躇せざるを得なかった。

そこへ次長が寄ってきて、

「部長、受注課のパートさんの大谷さんは前職で英語を使っていたようですので、頼んできましょうか」ニコニコしながらいった。

「それはありがたい」早瀬はほっとしながらも、自分の英語力を示せなくて少し残念な気もした。

 部屋の出口に近いブースに座っていた大谷さんがヘッドフォンをかけたまま次長にうなづいていた。電話は転送されたようだ。

 後で次長に聞くと、これまでも英語の電話が入ると大谷さんに依頼していたようだ。

「これはいい。大谷さんについては全員公認のようだ。これをきっかけにして語学の得意な人を洗い出してその人たちをまず浮かび上がらそう」

 社員カードを見ればすぐわかることだが、その後の資格取得もあるかもしれないと思って公平を期すためにわざと全員にアンケートをし、申告させた。その結果、語学に関しては英会話が得意な人が二人、実用英語検定TOEICの上級レベルが一人、中級以下の人が四人、英語以外ではスペイン語や中国語、韓国語を話せる人もいたので驚いた。

 最近は日本にいる外国人からの注文が増えてきており、日本の下着類のよさを気に入って注文してくる客もいた。外国人からの直接の電話注文である。また海外在住の主婦らが海外の衣料品はサイズの大きいのが多いので小さなサイズを求めて注文してくることもあった。そこでこういった外国語を話せる人のリストを作成し、外国語の電話があるとその人に転送する仕組みを作ったのである。このときはねたみも無かったようだった。自分がどうがんばっても太刀打ちのできないことで、しかもいつ自分のヘッドフォーンに外国語が流れてくるかも知れず、そのときにはお世話になることを考えると、ねたみは発生しないものらしい。こういった地道なことをしていっているおかげかもしれない。投書が無いか少ないようなのは。

 しかし、投書制度は部内だけの問題では無かった。会社としての問題である。

 本社から離れている部署の一管理職が自分の部内だけで改善をしようとしても限界がある。といってそのために社長のところに出かけて行くのも勇気がいることであった。そこで投書制度を逆に利用しようとしたのである。

 投書だけは必ず織田社長が直接読んでいる。それなら投書という形で改善提案をしようと考えた。そのことで本社に呼ばれたらそのときは口頭で意見を述べればいい。早瀬は現在の投書制度の弊害とまたよい点をまとめた。つまり投書制度のメリットとデメリットの両面を考えていったのである。そして本部1階の投書箱に投入した。

十二.フィナーレ ⑤

 この部に着任して九ヶ月。本社から離れていると堀からの情報が最も頼りになっていた。その堀から相変わらず投書が多いということを聞かされていたが、多分その中には早瀬に対する投書も多いのに違いなかった。

 いろいろな新しいことを実施し、それなりに成果が上がっているという自負はあったが、それは自分の自己満足かもしれない。部下の次長や課長にしたって、面従腹背的なところがあるのは確かだろう。

 夜間の電話受注体制ひとつとっても喜んでいる社員は少ない、いや誰もいないかもしれない。以前なら夕食は家族そろって食べられたし、若い社員にとっては夜のデートもいつでも可能だったのが、シフト制とはいえ夜遅く帰る日が週に一日か数日はある。シフトをうまく組んでできるだけ時間外勤務とならないようにしているので実入りも少ないだろう。本人たちにとってはまさに労働強化のように思えているかもしれない。

 パートタイマーの主婦にとっても家庭のことを考えると少々の割増賃金では喜んではいないだろう。新規採用のアルバイトだけはその勤務時間を初めから承知の上だから、多分問題は無いと思う。だから早瀬に対する投書が少ないわけが無いと思っている。しかし今のところ早瀬に対する投書の有無を本部長からも、堀からも聞いていない。

「そんなわけないだろう」思わずつぶやいた。

もちろん部内ではできるだけの手を打ってきたつもりだ。

 たとえば、一番人数の多い、そして投書を仕事の一つと考えているパートさんに対しては、班毎に月数回約1時間程度の会合を開いてきた。もちろん勤務時間内で、茶菓子も自腹で用意した。できるだけリラックスした雰囲気に持って行くようにして、女性課長や女性主任などに司会させ、その場では早瀬が話すことは極力控えて、聞き役に回った。

 最初は用心して沈黙が長かったが、二回目、三回目となるとそのうち発言が活発になってきた。その発言も最初のころは要望が多かったが、そのうち不満も声に出していうようになった。ただし、ここにいない人の悪口はいわないようにと釘をさしてはいた。

 要望については早瀬が自分でできることはすぐにやるようにし、部としての問題は部内会合で課長連中に検討してもらった。物流本部全体にかかわることは本部長や関係部長と話しをし、できることは少しでも実施した。そういった解決への努力や状況は朝礼でできるだけ公にし、聞きっぱなしで終わることの無いように努めている。

 パートさんの社員カードを見て驚いたことがある。地元の農業のおかみさんが多いのではと予想していたら、サラ―リーマンの主婦が最も多かった。しかも中には前職が大手銀行や大手商社に勤務していた人が出産で会社を辞めたり、主人の転勤で熊本に来ていたり、また英語や経理等の特技を持っている人もいた。いわば大変な人材を抱えているわけだ。

 といってそういった人に声をかけたりすると、それをねたむ人が必ずいることを経験で知っていた。

 スーパー勤務時代、店の幹部でいたころ、レジ業務を見回ってチェックしたりするときには必ず全員に声をかけるようにした。いまならセクハラで訴えられかねないが、レジ係のお尻を触ったり肩をたたいたりする場合には「するなら全員にする」、たとえ相手が嫌いなタイプでも同じようにすること。そして逆に「特定の一人だけにするようなら、全員にしない」つまり、話しやすいとか可愛い子だけに話をしたりすると噂になり、仕事がやりにくくなるだけでなく彼女らのやる気に影響しかねないのである。だから自分なりにそういう鉄則を作って守ってきた。

 そこで声かけだけはレジで接客中以外は平等にしてきたし、コミュニケーションを図るために休憩時間に外でお茶を飲むときには、手帳にレジ係全員の氏名を書いて漏れが無いようにした。これぐらいしないと女性が多い職場では一波乱の種になるのである。サフィールのような投書制度こそ無かったが、余計な噂が出たり人事に通報されたりということがあるのである。

 だからサフィールでもテレフォンブースを見て回るときにも非常に用心して歩いた。通路を歩くルートは漏れが無いようにした。同じ通路を何度も歩かないことも大事だ。そうするとたちまち「あの通路にいる誰かに関心がある」と勘ぐられてしまいかねないのだ。

 回っているとオペレーターの中にはわざと大きな声を出して応対したり、耳と手を休めてじっとして声をかけてもらうのを待ち構えるような雰囲気をしていたり、中にはわざとスカートをたくし上げていたりといった誘惑的な場面に遭遇することもあるが、全く平然と歩くようにしていた。

 さて、そういう前歴の優秀な人や特技を持っていることはわかってもそれを不用意に皆の前で口に出すと、それはまたあらぬ憶測を生む。早瀬はできれば彼女らの特技や前歴を生かせればと思っているが、なかなかみんながすんなりと受け入れてくれる方法が見つからなかった。ところが思わぬところから一つの突破口が見つかった。

十二.フィナーレ ④

 三月に入って春物商戦が本格化し、部内は活気が出てきていた。夜間受注や外部委託なども順調で、いまのところクレーム類も減少していた。久しぶりに下通りで堀と待ち合わせて焼き鳥屋に入った。

 堀からは本社の情報を得たり、社長の動向を聞いたり、堀との飲み会は単に気晴らしでなく貴重な情報収集の場でもあった。もちろん情報を得てどうのということではないが、本社から離れたところにいると「普通」の情報でさえなかなか入ってこないのである。

「結婚したころ、最初は大阪でいう文化住宅というのに住んでいたんだけどね、家が暗いし前の道が狭くて吹田の建売長屋に引越したんだ」

文化住宅というのは聞いたことがありますね。あれは大阪だけの名称でしょう」

「もともとは戦後の住宅ブーム時代に作られた文化的な家というものかもしれないが、だいたいが二階建てでマッチ箱を縦にしたような家だった」

「へえ、それでその建売長屋っていうのはどういうのですか」

「私が住んでいたのは真ん中に空間があってその周りにコの字型に長屋が取り囲んでいる形なんだがね。両側に四軒、奥に二軒の家があったね。その両側の四軒、奥の二軒はつながっているので長屋というんだが」

「はあ、それがどうしたんですか」

「その真ん中の空間の下は共同の浄化槽でね。十軒分のだから大きなものだったと記憶しているが、あるときその浄化槽が詰まって、業者が来たんだ。業者もこの大きな浄化槽が詰まるなんて考えられないし、何かよほど大きなものを流したのと違うかっていうので調べたところ、なんと大量の使用済みのコンドーム、つまり中身入りのが原因らしかった。そこで誰だ、こんなトイレに流して、しかもこんなにたくさん!という声が出てきてね。業者の言うには『奥の二軒の排水口からのようだ』とのことだった。その奥の家の1軒は中年の夫婦でもう一軒は新婚の調理師さんだったんで、その新婚さんだろうってことになってね。『掃除代などをあの家に請求せよ』という声が巻き起こって、代表役の人が訪ねていったんだが、相手も元気な男で『知らぬ存ぜぬ』。結局金を払わずに急にどこかへ引っ越していったことがあったね」

「その後は詰まらなかったんですか」

「その後は大丈夫だったからやっぱりあの新婚さんだともっぱらの噂よ」

「口さがないかみさん連中は『うちもあれくらい使ってほしいもんやわ』とだんな連中に責め寄ったという後日談があったな」

「新婚さんてのはすごいもんですね。しかしひょっとしたらその新婚さんてのは部長のことでは・・・」

「何を馬鹿なこと言ってんだよ。そんな元気があればもっと・・・」

「もっとなんですか?」

「いやいや」 

「そういえばその同じ絶倫タイプで嫌われ者の広瀬部長の話聞きましたか?」

「あの部長、絶倫で嫌われ者か? 仕事はやり手のようだけど。なんだい」

「仕事はできるばってん、口が悪くて部下からだけでなく同じ本部内でもかなり嫌われているんです」

「この会社じゃおとなしい人は生きて行けないか」

「その広瀬さんですがね、大の蛇嫌いで、でもって天罰が当たったってもっぱらの噂ですよ」

「穏やかじゃないね」

「ご本人の奥さんが『会社を休ませてください』と電話をかけてきたので間違いは無いんですが、先日の夜、何か会合があったらしくて飲んでタクシーで自宅に帰ったらしいんですが、門の鉄か鋳物の扉をいつものように扉の上の横に長い部分を握って開けようとしたら、柔らかなものをつかんで腰を抜かしたそうです。大きな蛇が横に長くなっていた様なんですがね。びっくりしてワァって大声で叫んだらしいです。いつも金属の感触に慣れていたのが、いきなり細長い柔らかなものをつかんだら誰でも驚きますがね。酔っていて腰を抜かしたらしいですよ」

「そりゃ誰だってびっくりするだろう」

「深夜に大きな声がしたので近所の人まで出てきて大騒ぎって事です」

「それで腰は大丈夫だったのかい」

「奥さんが救急車を呼んで連れて行ってまあ何とか大丈夫だったようですが、近所の人が大笑いというか」

「それはかわいそうだぞ」

「近所でも評判が悪かったらしくて、こういうときに陰口をたたかれますね」

「お互い気をつけねばな。あまり人のことばかり行ってると、君の家の門戸にも蛇を置かれるぞ。そうそう蛇といえば、物流本部でも大騒ぎがあってね」

「へー、何です」

「二月の寒い日のことだったけど、うちのオペレーターの女の子が遅番勤務が終わって夜の九時半ごろに駐輪場のバイクに乗りに行ったんだけどね」

「女の子の遅番は大変ですね」

「事故でもあるといけないので遅番はできるだけ絞っているんだけどな。その子がバイクに鍵を入れてふと見るとバイクのエンジン部分だかに何か黒い紐のようなものが巻きついているので何だ、と思って取り除けようとしたら、ぐにゃとした感触で『キャー』さ」

「それは驚いたでしょうね」

「あわてて警備室の守衛のところに行ったんだが、そのときの警備員がこれまた蛇嫌いで」

「役立たずですか」

「彼はほかの巡回中の警備員を至急警報で呼び出したんだが、その至急警報は全館にサイレンが鳴ってね。物流本部でまだ残っていた幹部社員らが大慌てで、確認せずに警察へ連絡したりして、パトカーが飛んできたりで、蛇一匹でパトカー数台の大騒ぎさ」

「馬鹿みたいですね。で、結局、蛇のほうはどうなったんですか」

「緊急呼び出しを受けたもう一人の警備員は蛇の警報なんてわからないので右往左往。守衛室の警備員はパトカーの姿を見てこちらもびっくり。『何があったんですか』と警官に聞く始末。警官はそちらが呼んだのにとカンカン」

「漫画ですね」

「女子社員はにぎやかになったのでもう一度バイクのところに行くと、もう蛇はいなかったらしくてパトカーの横をバイクで帰って行ったとさ」

「何ですかそれは」

「警備員と警察に事実を確認せずに通報した社員はあとでこっぴどく本部長に叱られたらしいよ」

「なさけなか」

十二.フィナーレ ③

「部長、この間の電話コンクールの全国大会は惜しかったですね」大広間の食堂である。弁当を横で食べていた債権課の黒田課長が早瀬にもぐもぐといいながら話しかけてきた。

「まったく。同行した次長の話では上出来で、初出場で初優勝だとてっきり思ってたと言ってたんだけどね」

「かなり練習していたようで、選手の二人とも自宅に帰ってもやってたようですよ」

「ま、初めての挑戦で準優勝ならよしとするかな、って本部長とも話をしていたんだけどね」

「来年もやるのでしょう?」

「今回は私がやらしたようなものだから、来年についてはオペレーターや今回参加した金山さんたちの希望に任せるよ」

「そうですか」

「QCのこともあるし、あまり次々とトップダウンで強制的なことをさせてもと思ってね。みんながやるというなら応援するし、もうこれっきりというのならそれでもいいと思ってるんだけど」

「はぁ。もしこれっきりということになったら、もったいない気もしますけどね」

「社長に喜んでいただき部屋にも来ていただき、それはみんなの励みになったと思うね」

「私も社長のニコニコ顔は久しぶりですね」

「君は社歴が古いから、社員の数が少ないときは社長と一緒に仕事したくちだろう?」

「私が入社したときは社員数が十人くらいでしたね。社員は何でもしてましたね、社長もですけど、電話注文を受けたり、荷造りしたり、カタログの校正をしたり、市内の営業に行ったり、時には配達に行ったり」

「どんな会社でも創業期はそんなものだろうな」

「次第に会社が大きくなり社員数が、パートさんも含めて一〇〇人を超え、二〇〇人を超えとあっという間に今では二〇〇〇人以上ですからね」

「社長は昔から厳しかったのかい」

「仕事においてはいまと同じで厳しかったですね。経費をいかに少なくして安く売るか、しかも品質を落とさずということは一貫している気がします」

「なるほどね」

「社員思いも同じですね。正月には熊本城近くのホテルに全社員を招待して、パートさんや警備員も掃除のおばさんもですが、ご馳走と歌謡ショー、そしてお土産つきですよ。いまでは夢のようですが、社長は各テーブルを回ってニコニコして一人ひとりに話しかけてくれるんです。パートさんなんかは感激して涙ぐむ人もいましたよ」

「同じ職場の仲間って言うより家族みたいだな」

「社員数が千人を越えたころからそのホテル招待はなくなりましたが、古くからいる人たちは社長のことを決して悪く言いませんね、いまでも」

「家族なんだな」同じことを早瀬はつぶやいた。「会社が大きくなると家族的なつながりは希薄になるだろうな。その社員思いが長期休暇制とか社員の結婚式のご祝儀などいまでもいくつかは残っているな」

「仕事上では前と同じように厳しいのですが、仕事を離れるといまでもそのやさしさというか気配りはあるようですよ」

「そうかい」

「最近は東京出張は少なくなって日帰りばかりのようですが、数年前までは大体一泊されるのが普通でした。必ず秘書かその用件の担当者、部長とか、課長、係長の誰かなど一人同行してましたね」

「連れて行くのは一人かい」

「あまりぞろぞろとたくさん連れ歩くのは嫌いなようですね。いつも一人連れてましたね。私も二度ですけど一緒に東京に行ってきましたが、空港でも飛行機の中でもホテル内でもかなり気を使ってくれるんですよ」

「社長がかい?」

「そうなんですよ。たとえば空港では飛行機の中で読む週刊誌を買っていただいて、社長ご自身はその飛行機の中ではいつもだいたい目をつぶっていらっしゃって世話をかけさせませんし、ホテルに入っても夜は自由に過ごしていいぞっておっしゃって、ご自分はマッサージを二回分注文されて、そのまま寝られますね。全く世話のかからない、逆に私のほうが気を使ってもらっている状態なんです。他の者にも聞いてみたら誰と同行しても同じだということですね」

「決裁の場の厳しさからは思いもつかないな」

「ところがですね、東京から帰ってこられるときには自宅直行は殆どなくて、午後か夕方までには必ず本社に入られますが、本社につくまでの車内では実に優しいんですよ。ところが車から降りて玄関に入ると顔つきがガラッと変わりましてね、たまたまそのあと決裁がありまして、上司と私が呼ばれたんですよ。そうしたら先ほどまで車の中でやさしく話しかけていただいたそのご本人がいまは非常に厳しい口調で質問してきたりするんですから。こちらのほうは普通の人間ですから先ほどまでの余韻がまだ残っているのに、社長は完全に頭を切り替えられているのでびっくりしましたね」

「ほー、まさにプロの経営者だな」

 早瀬は古参社員やパートさんに社長が人気のある理由を知った。そして経営者としての厳しい一面も知った思いがした。

十二.フィナーレ ②

 一月中旬に全国電話応対コンクール地区予選があり、熊本では見事に清水好江が二位、金山美佐が三位に入った。初出場で二位と三位に入り、このことは熊日新聞で大きく取り上げられた。一位は毎年上位に入っている鶴屋デパートであった。

 本部長は大喜びであったが、早瀬は一位でなかったのが不満である。

 三位までは九州大会に出場できる。七県二一人が入賞を競い、ここでも三位までは全国大会に出場できる。

 早瀬は九州大会での優勝を命じた。清水と金山に対する特訓が始まった。

 シナリオは同じであるが、熊本大会での状況を見た指導員が問題点を書き出してくれたので、その点を改善しながら特訓を開始した。

[熊本大会での問題点]

  • 時間を気にしすぎていて、後半少し早口になった。語尾に不明瞭個所があった。

   ・過剰演技はだめ。

  • 審査員は応対の場面は見ずに、電話の声を聞いて審査している。電話を通しての声の感じの良さをだすこと。甘えっぽい声やつんけんしている感じはだめ。

   ・最低必要なことをゆっくり話す。不要な部分は捨てる。

 そして二月始めの九州大会では、なんと金山が優勝である。地方予選で三位の金山が頑張って逆転をした。

 この九州大会には石川次長に付き添いを命じ、主任と清水・金山の四人で行かせたが、まさか金山が優勝するとは予想していなかった。

 二週間後には東京で全国大会である。

 そんなある日、柴田本部長がぶらりとやってきた。

「早瀬君、社長が急にこられるぞ。珍しいこっちゃ。物流本部にこられるのも珍しいが、君のとこにも行く言われてな」

 本部長は上機嫌である。織田が物流本部にこられることは年に一回か二回あるかということは予てからきいていた。

 社長がこられるとなると、物流本部全体で大掃除が始まった。雑草もきれいに抜かれた。織田は植木にも関心を持っていて、物流本部の広大な敷地の周辺は見事な木が囲んでいる。以前に数本の木が害虫にやられ枯れたとき、当時の本部長に「木も育てられないようで、人を育てられるものではない」と激怒したということも耳にしている。

 石川に聞くと社長が顧客応対部に来られるのは、発足したときにこられて以来、初めてとのことである。石川はさっそく部内の整理整頓と掃除を計画し実行した。もちろんオペレーターのデスク回りや端末画面もきれいにした。

「早瀬君、どうだ。頑張ってるらしいな」社長は柴田本部長をはじめ物流本部勤務の役員や社長室長をしたがえて部屋に入ってきた。

「はい、ありがとうございます。みんな良くやってくれますので」早瀬はぺこりと頭を下げながら久しぶりに見る社長の顔を見た。精悍な顔つきは機嫌良さそうであった。

「柴田本部長からいろいろ聞いているが、やはり私の見込んだだけのことはあるな」

「恐れ入ります」顔が赤らむのを感じながら、社長を窓際の書類棚へ導いた。

書類棚には九州ブロック大会優勝のトロフィーがあり、窓際には優勝旗が脚立に立てられていた。

「これが、優勝旗とトロフィーです」といいながら金山と清水を呼んだ。

「優勝者の金山と、上位入賞の清水です」

社長はトロフィーを手にとって見ていたが、振り向いて、

「良くやった。ウチは通販会社だから優勝は当然というものもいるが、初出場で会社の名誉を高めてくれたな。次は全国大会か」

「はい、東京で一〇日後です」

「そうか、金山君、ひとつ頑張ってきてくれ」

 織田はにこにこしながら部屋を出て行った。