十二.フィナーレ ⑧

それから1ヵ月ほど経過したころ、部内ミーティングをしていると、秘書の斉藤が「本部長からお電話がありまして、至急お越しくださいとのことです」とメモを手渡してきた。泰然自若、大物の風格がある本部長から「至急」とはただ事ではない。あとのテーマは次長に任せて不安を胸に抱いて階段を足早に降りていった。自分のした投書のことだろうか、逆に何か投書されたのだろうか、大きなクレームだろうか、真弓のことがばれたのだろうか、およそ思いつく悪いことはすべて頭の中を駆け巡った。

 本部長席の前に立つと、本部長は顔を上げてニコニコしていた。ほっとした、これなら悪い話ではないかもしれない。

「おお、早瀬君、応接室に入っててくれんか」

 豪華な応接室に入り、神妙な顔で座っていると本部長が笑顔で入ってきた。

「待たせたな。ま、そんな固い顔をしなくてもいいぞ」

「はい、御用はなんでしょうか」

「早瀬部長、本社に異動だ。マーケティング部長だ」

「え、本当ですか」頭の中に一瞬、真弓のことでなかったと安堵感が沸いた。

「本当も何も、こんなことで冗談は言わんよ。しかし君はまだここに来て1年にならんだろう。私としてはもう少しここにいて欲しかったな。君が来ていろいろな新しい改善に手を付け部内の雰囲気もよくなりやる気も出てきてるようだし、それにいろいろな試みはまだ軌道に乗ったともいえんのじゃないかと危惧しているんだが。それに例のQCもまだ発表会にまで達していない様だし」

「はい、おっしゃるとおりだと思っています。次長や課長初めみんなの協力と努力で、いろんなことに手を付けていますが、まだ完全にみんなの体に染み付いたとはいえないと思っています。できればあと一年はいまの部署でやりたいというのが私の本心ですが」

「そうだろうな。しかし知ってのとおり社長命令は絶対だからな、変えることはできんからな。決定した以上、後のことがうまく回るように手立てを考えていってくれないか。私ができることはするから」

「はい、わかりました。で、着任はいつですか、それと後任は」

「社長は明後日からとおっしゃたので、君といま話したような事情を申し上げて、一週間の猶予を下さったぞ。それでも短いかも知れんがこれが精一杯だ。それと後任は次長にしてもらうようにしていただいた。それは君のやり方を踏襲するためには本社から事情の全くわからない人物を置いたりしたら、もとの木阿弥になりかねんからな。わかってる、石川君は線の細いところがあって二〇〇人の部下を持つには負担が大きいのではないかと思っているのだろう」

「え、いや、そういうわけでは」

「実際のところ、ほかに適切な人物がいないんだよ。彼を育てるしかないだろう、私もこれからはケアするようにするから」

 早瀬はうれしいというより、非常に複雑な心境であった。せっかく始めたいくつかの試みの行く末を見ないで行くことだけでなく、マーケティング本部副本部長に昇進した木下の下にまたつくのかと思うと暗澹たる思いもあった。

 しかし、社長が評価してくださったことは大きな喜びでもあった。あの自分の進言で降格になるかと思ったが、結局受け入れてくれたようだ。本社で今度は部長として力を発揮できる。明るい気持ちを持つようにしよう。

 まずするべきことは次長に昇格の内示、そして一週間をかけて継続事項の定着を図る仕掛け作りなどするべきことは山のようにある。足早に階段を駆け上がり、自席に戻り窓から阿蘇山に向かって深呼吸した。

                                                                        完  

 

  

(この作品はフィクションであり、実在の個人、企業、団体とは一切関係ありません)