プレリュード②

 売り上げ規模が年商1000億円を超える通販会社を率いる社長の織田淳一は、痩せ型のすらりとした身体つきで175センチの長身、その雰囲気は精悍ささえ漂わせている。脂の乗った57歳である。創業社長として会社の持ち株の大半を持つだけでなく、妻や子名義の株式と名前ばかりの関連会社の持ち株をも合わせると、実質的に株式の9割以上を所有している。

「この会社は自分の会社である」という強烈な思いが根底にあるので、稟議書の隅々にまで目を光らせ、少しでも疑問や不安があるとサインしない 。

 特に、支払伝票は「自分の金」を払うのであるから、金額に関わらず、すべて自ら目を通し内容を吟味している。そこには副社長や専務・常務などの役員といえども、いいかげんな決裁は出来ない仕組みが出来上がっているのである。

 早瀬が前に勤めていたスーパーの創業社長も、創業社長特有のいいたい放題やりたい放題をしてきたという評判だったが、1兆円を越す売り上げを達成したあと、会社を傾け、結局引退に追い込まれた。その流通業界の革命児もいまは、まるで二度と出てこないようにとばかりの巨大かつ豪華な四角い石の重しを乗せられ、その中の小さな壷の中に納められている。

 そのスーパーの社長は、上場して副社長以下経営陣を「充足」したあとでも、支払伝票はすべて自らチェックしていた。当時、秘書課にいた同期入社の友人の話によると、ある役員が出張して秘書が旅費精算伝票を提出した。添付したホテルのレシートを一行一行細かくチェックし、「このビール代は自分で飲んだんやから自分出払わなあかん」とその金額を減額させたという。

 織田社長はこのスーパーの社長とまったく同じタイプの創業者である。

 近江商人発祥の地、滋賀県の商業高校を卒業後、卸店や小売店、工場、販売会社のセールスマンなど幾つもの職業を転々としたらしい。こつこつと倹約して蓄えた金を持って熊本に帰ってきて、女性用実用衣料品の販売を始めた。しかし、販売といっても店を構えてのことではなかった。倉庫のような建物であったという。

 当時の織田を覚えている人がいまも市内に何人もいる。その一人が早瀬に語ったところによると、最初は段ボール箱に靴下やパンティーストッキング、下着類を詰めて、リヤカーに乗せて女性の多い職場、たとえばNTTの電話交換手、日赤の看護婦、県庁とか市役所の職員などを訪ねて、職域販売的なことをしていたようである。

 最初はかなり苦労したようだったが、働く女性たちの人気を得てすこしづつ売り上げを伸ばしていったようである。そのうち従業員を増やし、市内だけでなく隣接市まで営業を広げていった。 しかし低単価の商品を職場に運んで売っていくだけでは、手間のかかる割には儲からず、効率も悪い。

 そこで職場毎にリーダー格の女性に注文の取りまとめ役をお願いし、その取りまとめた注文をあらかじめ印刷して渡しておいた受信人払のハガキ注文書に書き込んでもらい、ポストに投函してもらうという仕組みを考えたのである。まさに職域販売と通販的考えのスタートである。

 取りまとめ役の女性にはそのお礼として、売上げに応じた歩合を払う仕組みをとった。言ってみれば自社の代理人を官公庁や会社の職場内に設置したことになる。取りまとめ役の女性たちは、小遣い稼ぎになるというので熱心に注文を取ってくれるようになり、中には新しく女性社員が入社すると必ず「私に」に注文するようにと「指示」したというお局もいたらしい。

 それが今日の1000億企業につながる通販的仕組みのスタートであった。

 次第に取扱商品を広げ、新聞チラシで新しい顧客を獲得していき、職場ルートと個人相手の直接の通信販売客を増やしていった。その過程はまさに「創意と工夫の積み重ねであった」と、織田は部下を前にして話すことが多い。