メーキング通販 1.プレリュード①
一.プレリュード
「社長決裁です」
いきなりかかってきた電話の声は事務的であった。
社長秘書の井上は自分の名前も言わず、こちらの返事も聞かずに電話を切った 。
「勝手に電話切って失礼な奴やなー、決裁言うても何の決裁かわからんじゃないか」
マーケティング部次長の早瀬は一応周囲を気にしながら、つぶやいて立ち上がった。
「壁に耳あり障子に目あり」なんてことわざは昔からあるが、広い室内は間仕切りもなく遮るものも無く、そこには全身を耳にし頭全体をトンボにした、要するにトンボの目が耳の上に乗っかった耳のお化けがいるような社員たちがそこかしこにいると思ったほうが良い。ボールペンを持ち一心不乱に何か書き込みをしている振りをしていても、パソコンに向かって周囲のことはわれ関せずというスタイルを持っていても、全身がイージス艦状態である。
だいたいが、パソコンに向かっていると「仕事をしている」といまだに思わせているという姿勢が、すでに大間違いであることにいまだに気づいていない。誰か人が近づくと画面が急に切り替わるのを見ると情けなくなるほどだ。そういういうことに気づかない上司がまだいると思っているのであろうか 。
いずれにしても社内での不用意な発言には気をつけないと、あとで痛い目にあう。
「おい、竹中課長、社長決裁だと。いま何の稟議書が出とったかなー」
前方に座っている企画課長の竹中に声を掛けた 。 早瀬の独り言を背中で受け止めていた竹中はすぐに反応した。
「はい、いまはですね、来年の春夏戦略プランがそろそろ社長のところに回っていると思いますし、もう一つは11月の新聞広告プランのラフ案でしょうか」
「そうか、春夏戦略か、このとおり承認していただけると面白いんだがなー」
竹中に同意を求めるように言ったあと、稟議書ファイルから企画書のコピーと説明資料を取り出した。ついでに社長からの突然の質問に備え、売り上げ関係の資料も抱えた。
「行くぞ」
出陣である。いつもは上司の木下部長が先頭を切って行くのであるが、あいにくと出張中である。敵陣に向かう突撃隊長のような気分が漲ってきた。
社長決済の場は、この会社では証人喚問のような雰囲気がある。宣誓こそしないが質問にすばやく答えられなかったり、検討不十分が露呈して言葉に詰まったり失言すると叱責される。そして、いずれ何かあったときに思い出されて、降格の対象となることがあるのだ。
社長の織田自身、「決裁は戦いの場である」と役員会で何度も公言している。しかし、従業員の側からすると、それは対等の戦いではなく隷従の中での戦いとなることを十分知っていた。しかも鉄砲に竹やりで向かうようなもんだという気分がそこにはあった。
だからその「決戦」の場で、織田のポイントを鋭く突いた質問に澱みなく受け答えできないと、 あっと言う間に否決となる 。否決ならまだいいほうである。「こいつは頼りない」「わかっていない」と判断されると、即左遷である。翌日の朝礼で自分の異動を知ることになる。