プレリュード④

 決裁の場には起案した部署の所管本部長(役員)・担当部長・次長、場合によっては課長以下も呼び出される。つまり案件ごとに織田と起案部署の幹部が向き合う形となる。

 通常の会社ではよほどの案件でない限り、稟議書というペーパーが関係部署や役員のハンを順次集めて最後に社長決裁される。しかしサフィールでは決裁の場を幹部教育の場であると織田が考えており、稟議書は織田の面前で担当幹部から説明を求め、織田はその問題点を見つけ出し指摘する。そのことによって見るべきポイントを教えているつもりだと聞かされていた 。しかも織田は事前に稟議書を見ていないと言われている。

 事前閲覧なしに多数の稟議書をその場で見て、すぐに問題点を見つけ出すということは容易ではない。それが本当であれば創業経営者として修羅場をくぐってきた経験だけでなく、ことの本質をつかむ生来の知恵もしくは感覚が備わっているのかもしれない。多分どこかの段階で一度目を通してから秘書に返しているのではないかと早瀬はにらんでいる。それにしてもメモも持たずにその場で質問し、即決しているのである。

 また稟議書にどれだけ多くのハンを集めていても関係はない。といってハンを押さなくても良いかとなると、決裁の場で「誰々は見ていないのか」とすぐに見破られて突き返されることになるから油断はできない。幹部社員全員の役職と職務内容をよく覚えているのである。

「全身全霊を打ち込んで稟議書に向かう」

 これが織田の口癖である 。だから決戦の場であり、そして決戦が終わると大きな疲労感が生まれ、その疲労感は満足感を伴う快感ともなるようだ。

 多くの会社ではとくに重要な案件は役員会とか常務会に付議され、その場で全員であらゆる角度から意見が出され検討されるのであるが、この会社では最重要な案件でも社長単独つまり独裁が全てである。

 もちろん、月に一度の取締役会議はあるが、これは役員会を開いたという形だけの存在に過ぎない。元来、織田は会議というのが嫌いで、これは時間潰し以外の何ものでもないと考えている。

 取締役会以外には、この4月に商社から招聘されて入社したある役員の提案で、毎朝八時に本部長会議が開かれるようになった。これは他の役員には不評である。「点数稼ぎの提案をしやがって」という声が早瀬の耳にも届いていた。

 この本部長会議たるものの内容は 「今日の予定」と「連絡事項」が中心であり、何か議案が出されてもこの場で決まることはまれである。ただしその本部長会議に織田がたまたま出席すると、織田の一声で決定する。この場合は事後稟議という形式が取られる。

 結局、早起きさせられ緊張するだけのことであり、 ほとんどの役員にとって余分な会議となっているのは尤もである。面白いことに本部長が8時から出ているといっても、部長や次長以下が急ぎの諮問事項に答えるために待機していないのである。これは社員のずるさというより社長が出席していない会議の意味の無さを見抜いているからであろう。つまりは社長の出てこない役にも立たない会議のために待機する必要性を感じないのだ。社員の目はひとえに織田一人に注がれている。

 6階の社長室にたどり着いた 。今年の9月は残暑が厳しくて下旬になってもまだ全館冷房しているのに汗ばんできた。