プレリュード⑤

 この本社ビルは熊本城に近いくまもと阪神デパートから道を隔てた場所にあった 。6階建てでエレベータは2機あるが、そのうち1機は荷物用である。人用の1機のエレベータを待つよりも階段を上った方が早いので、男子社員の殆どはよほどのことが無い限り階段を利用している。社員の平均年齢が若いということもある。織田も階段利用中心で出社時には身軽く二段跳びで6階まで駆け上がる姿がよく見られる。

 

 早瀬功一。38歳。サフィール株式会社マーケティング本部マーケティング部次長。妻あり子供2人。

 大阪のスーパーの本社に勤務していた昨年、たまたまお盆に帰省していた実家で地元の新聞を見ると、通販会社のサフィールが人材募集広告を出していた。応募して見ようと思った。

 当時、郷里の病気がちの両親のことを考え、いずれ長男として親を取るか仕事を取るかという決断を迫られるであろうという予感があり、これから先いつどこへ転勤するか分からないスーパーでの人生をストップしようとしたのである。本社と各地にある地域本部や店舗間の異動は頻繁であり、早瀬自身も引越しの伴う転勤だけでもすでに5回経験していた。そしてこれからも本社勤務で定年まで過ごせるという保証は皆無であった。

 ただし募集広告を見たときは、そう真剣なものではなく一応、応募でもしてみて合格だったらそのときによく考えてみようという軽い気持ちであった。

 入社試験のため、9月初めに熊本に帰ってきてサフィールを訪れた。

 年商1000億円を越す会社の入社試験は、適性検査も筆記試験もなし、最近流行のグループ討議もなしで、役員面接だけであったことに驚いた。同じときに20代の男女7名が入社試験に来ていたが、全員同じく面接だけであった。人事課の係長からは「会社が急成長して人手不足だから人物本位でどしどし採用している」と説明を受けた。しかしこれは織田社長の自信から来るものであることが後でわかった。織田は「人を見る目は持っている」という確固たる自信があり、書類と面接で人がわかるから 暗記力から来る筆記試験や当てにもならぬ性格検査など不要だということなのである。

 早瀬の場合も面接は社長と副社長、人事本部長という3人が面接官で、副社長から2~3の質問があっただけで、5分もかからずすぐに終わった。

 人事部前のテーブル席で少し待つようにいわれ、全員の面接が終わったあと人事部の課長がやってきた。「皆さん全員合格されまして、採用になりました」と発表された。あまりのあっけなさに驚いて「もういいんですか」と聞き返したほどであった。そして「いつ入社できますか」とせっつかれた。早瀬は戸惑い即答できず、辛うじて「今の会社と調整して電話します」と答えるのが精一杯であった。若い応募者たちのほとんどは「いつからでも」と答えていた。

 いざ合格とはなったが、長年勤めてきたマンモスにもちろん未練はあった。

 妻とも相談し悩んだあと、結局両親のことを考え、さらにこの採用試験の試験なしで人物本位というユニークさも気にいり、スーパーに辞表を提出した。

 10月1日付けで入社。即次長の辞令をもらった。

 急成長しているサフィールの管理職採用は基本的に人材斡旋会社経由か、取引先に頼み込んでの採用がほとんどであった。現に社長を除く役員8人中7人までが招聘ルートである。また部長クラスについても大半が人材斡旋会社経由か取引先からの推挙(放出されてきたといううわさのある管理職もいるが)での採用が殆どである。そういった中で早瀬は一般社員募集広告で採用され、即管理職という社内では異例の入社であり、社内で話題になっていたようだ。もちろんその背景には早瀬の経歴があったのではないかと思っている。