プレリュード⑥

 500㎡もあるこの広い社長室は本社内各フロア同様、間仕切りや衝立ては無い。

 その社長室に入ると、すぐ左側に秘書課があり課長以下6名が役所スタイルの配置で机を向き合わせて座っている。その左側の少し離れた窓際に社長室長のデスクがある。

 中央部分には20人ほども座れる革張りの応接セットが、部屋を中央で区切るかのように横に一列に置かれている。その応接セットの左半分には一人掛けのアームチェア8脚が4脚ずつテーブルをはさんで置かれておりその最も左側には窓を背にして社長専用のやや大きめのアームチェアがでんと置かれている。その社長専用席のちょうど後ろ、窓の外には5階のルーフを利用した植栽が施されており、木々の間から熊本城が浮かび上がっているのが見える。

 一方、中央応接セットの右半分には4人掛けのソファーが同じ長さのテーブルを挟んで並べられており、出席した者の中で下の地位の者たちの専用席として使われている。

 この広い部屋の一番奥には馬鹿でかい社長デスクが鎮座している。そのデスクの右後方壁面を見ると、ドアらしきものがあるのが辛うじて判別できる。このドアを開けると社長専用のフランス製の香水が漂うと噂されるトイレがあるという。そのトイレのドアの少し左、少しくぼんだところに同じ壁紙で見分けがつかないようなドアがある。非常階段のドアである。なぜこんなわかりにくいところにあるのかという疑問はわくが、若い社員たちによるとこれは社長の避難通路だという。「逃走ルールだけん」という口の悪いものもいる。もちろん、通常時には社員利用は禁じられている。

 中央大応接セットのソファーの右端には先客が四人座っていた 。情報システム部の幹部達である。同じように織田に呼ばれたと思われる。マーケティング本部長の佐久間は応接セットの中央寄りのアームチェアーに、一人ポツンとすわって早瀬らを待ち受けていた。

 佐久間は早瀬の入社後まもなくサフィールの主要取引先である大手繊維メーカーから招聘されて入社した人物である。入社時の印象では、小太りで小柄な身体にエネルギーを漲らせている雰囲気が有った。

 入社時の織田自らによる紹介では、繊維メーカーのヨーロッパ支店長を経験し将来を嘱望されている人物であったのを、先方の社長にひざ詰め談判して来ていただいたというようなことであった。入社早々の頃はその張り切りぶりが際立っており、すぐ近く座っているのに「木下君」「早瀬君」と呼びつける声が室内に響き渡っていた。しかしそれが一ヶ月もすれば「木下部長」「早瀬次長」という呼び方に変わり、声も小さくなっていった。「君 」づけで呼ぶのは課長以下に対してだけになったのには部員が驚いた。

 社内ではこれを去勢効果といっている。最初は元気一杯にやる気を漲らして入社しても、一週間もすればこの会社では自分の肩書きは立派でも何の権限も無いことに気づくのである。もちろん、日本での新しい業態である通販というビジネスの理解度も、織田社長どころか部下たちにもかなわない。さらに社員の目は直属上司や役員ではなく、一様に織田だけに向けられていることにも気づくのだ。それに、なんといっても役員が指示したことを織田があっさり覆すことが日常茶飯事であることにも気づくのだ。

「通販のことは私が一番知っているんだから」と言うのが織田のいつもの口癖である。たしかにこれをいわれると、いかに大企業出身者であろうと、ヨーロッパ支店長経験者であろうと、一言も言い返せるわけがない。

 正面奥の巨大な社長デスクでは織田が大きな声を出していた。

「お前たち何を考えているんだ。私に応募書類を見せなさい。私が最初にふるいをかける。君たちより私の方が人を見る目はある。君たちの仕事は私がふるいにかけた後の事務作業だけすればいいんだ」

 人事部が叱責を受けていた。話の内容を推定すると、人事部が途中入社応募者を書類選考した結果を怒っているようだ。織田はたとえ人事案件であろうと営業関係の社外秘数値であろうと、そして近くに誰がいようと意に介さず大声で話をする 。

 かつてスーパーで採用業務も担当したことのある早瀬は織田の声をいやでも耳にして(無茶なことを言ってるなー)という気がした。

(誰を採用するのか知らないが社長自ら全ての応募者の選考をするというのであれば、人事部はいらないのではないか。いつまで個人商店のつもりでいるのであろうか)そんなことを考えながら書類に目をやった 。もしかしたら自分の応募履歴書についても、直接目にして選んだのかもしれない。