プレリュード⑨

「次長~ 」

 書類に目を通していると甘ったるい声がした。見上げるとマーケティング部の才媛といわれいる生駒真弓である。

「はい、何でしょうか」気分のよかった早瀬は少しふざけた口調で返答した。

 昨年サフィールに入社した時、部内で歓迎会を設けてくれた。その席で盛り上がったころ、生駒が酌をしに来たことがある。そのまま横の空いている席に座った。部長の席である。その席の主がトイレから戻ってきても生駒は知らん顔して居座っていたことを思いだした。自席に戻ろうとした部長は困ったような顔をしていたが早瀬は気づかぬ振りをして、どうするなるか期待していた。しかし、視野の中で部長はメタボリックな身体をゆすりながら他の部下のほうへ向かった。

 部下とはいえ、まだ直接言葉を交わしたこともないのに生駒は非常に親しそうに話しかけてきて、しかも話題の豊富さと人の気をそらさぬ会話の仕方は、後で知った「才媛」の呼名にふさわしいものであった。

 それ以来彼女に一目置いているが、仕事の面でもバリバリこなす方で同年齢の男子社員よりもよっぽど頼りになるようであった。

「在庫の件ですが、平均月商の3ヶ月分に届きそうなんです」

「やれやれ、一方で品切れでユーザーから叱られ、こちらでは過剰在庫か」

「そうなんです。これは通販の宿命とか言う人もいますが、やはり問題じゃないでしょうか」

「店舗販売だと、品切れしそうな時は商品本部や直接メーカーや問屋に電話して何とかなったもんだし、どうしようもない時にはお客さんに代替品をお薦めしてうまくいったりしてたんだけどね。過剰在庫についても返品処理とか店頭で叩き売ったりして処分できたんだけどな」

「通販は処分方法が限られていますから」生駒は少し頭を傾けて悲しそうな顔をした。

 同じような問題を抱える多くの通販各社の在庫処分方法は、処分チラシを作成して注文商品に同封して安くさばくか、バッタ屋に流して処分するか、海外で処分するかが主流である。しかし、バッタ屋に流す方法はサフィールでは厳しく禁じられている。なぜなら、せっかく築いたブランドイメージを傷つけることになるからである。

 生駒の大きな瞳がじっと早瀬を見つめているのを感じ周囲のトンボの目を思い出した。あわてて、

「データを見せてくれないか」と言った。

「データを次長のパソコンに転送しましょうか。それともハードコピーにしますか」

「すぐ見たいから、見に行くよ」

 会社のホストコンピューターにつながった生駒のパソコン端末を見に立ち上がった。前を行く生駒は今日も超ミニスカートだ。むかし、トランジスタガールという言葉があったように思うが、太っているというほどではないが小柄で体にぴったりのスーツを着てピチピチギャルといったところである。(ボディコンかな)と早瀬は思っていると、ふと映画の“Shall we dance? で、主人公の前を歩いていた女性が「私のお尻を見ないで」 と言ったシーンを思い出し、あわてて顔を天井に向けた。いまにも生駒が振り返ってお尻を見ないでというかもしれないと思ったのである。  

 端末の前に座った。画面を眺めていると椅子のクッションから彼女の生暖かい体温が伝わってきた。

「やはりこれはプリントアウトして。十分検討して部長にも報告し対応策を考えなければな。部門別に詳しいのがいいな」半ば独り言のように指示して席を立った。前方に企画課のもう一人の女子社員の視線に気づいた。(ここにもトンボ。危ない危ない・・・・)

 

 しばらくして生駒がプリントアウトした用紙を持ってきた。

「次長、今年度に入ってからの月次の在庫推移表と期末までの見通しを、商品分類と商品部別に要約したのも作っておきました」

「そりゃーいいね。ありがとう。ちょっと見てから生駒さんの意見も聞きたいからあとで呼ぶよ」 。生駒はニコッとうなずき、少し頭を下げて離れていった。

 ちょうどその時、大きな声がした。

「どうだ、みんな頑張ってるか」

 急に室内が静かになり、ガサゴソという音があちこちでした。

織田の声である。一日の決裁がすべて終わったころ、時おり社内を見て回る。テレビで見たような「院長回診」だとたくさんのお供を連れ歩くのだろうが、織田は秘書も連れずに一人で社内を回って歩くのである。今日の決裁はもう終わったようだ。

 室内は急速に静まり返っていった。電話をかけている者もひそひそ声になった。机の上を片づけている音や引き出しを開け閉めする音がする。机の上は執務中といえども常に片づいていなければ織田の注意を受ける。

「乱雑な机で仕事の能率が上がる訳はない。君たちはごみためのような所で仕事をしているのか」

 早瀬が入社した早々、織田がマーケティング部に入って来て部長の目の前で社員を叱りつけていので驚いたものである。

「書類は机の端の縦横の縁に合わせてきちんと置かねばならん」

つい先日は、

「ボールペンや鉛筆と消しゴムは、に机のここに置いて仕事をするもんだ」と、みずから社員の机の上の筆記用具を机の右手前に揃えて置いたのには驚いた。

 このマーケティング部は途中入社の者が多くそれぞれ案件を抱えてにぎやかにやっているところがあった。入社して鉛筆の置き方まで指図されるとは思わなかったという声も当然あった。ただし社内では滅多なことは口に出せない。

 若い部下からのそんな不満を直接耳にしたときには、早瀬自身は社長を擁護に回っている。それというのも早瀬の尊敬する京セラの稲盛元社長も同じ様なことを言っている記事を読んだことがあるからだ。稲盛氏も執務時の机の上の整理の必要性を説き、織田と同じように鉛筆を置く場所をも指示していたからである。サラリーマンになってから愛読しているD.カーネーギーの「道は開ける」という本の中にも「秩序は天の第一の法則である」という言葉があるのをかすかに記憶しており、早瀬自身も整理整頓の大切さを自ら実践しているからでもある。

「早瀬君、どうだ、何かあるか」

 織田が近寄ってきて声をかけてきた。

「お疲れ様です。はい、いま部下から報告を受けたばかりで出張中の部長にもまだ報告していないことなんですが、在庫の問題が出てきています」立ち上がって軽く会釈して答えた。

「そうか、ちょっと聞かしてくれ」織田は早瀬のデスクの前に置いてある折り畳み椅子に座った 。

 早瀬はやっと気づいた。今、自分は「部長出張中」と言ったが、だから社長が様子を見に来たのだと。