二.ファラオの寝台⑪

 東京の私立大学を卒業して、当時日の出の勢いであった大手スーパー「マンモス」に入社。マンモスでは不振店の建て直しのため心身をすり減らす毎日を過ごしていたが、マンモスを惜しまれつつ退職し熊本に帰った。 

(惜しまれつつ・・・か)早瀬はいまでも自問自答することがよくある。辞意を伝えた時には上司は驚いた顔をし、すぐに慰留の言葉を出してくれた。しかし役員段階ではあっさりと承認された。もう少し慰留してくれるかと少しばかりは期待していたが拍子抜けするほどであった。だから(惜しまれつつ・・・)の言葉が妥当かどうかは自信がない。

 ただ、当時のマンモスは売上げ低迷におちいって来ており、社員の自己都合退職を期待しているという噂が流れていた頃である。やはりいまにして思うと潮時だったのかもしれない。

  昭和三二年に「主婦の店 マンモス」が創業したころは、全国的に「主婦の店」ブームの最中であり、日本の第一次流通革命のころであった。

 日本各地に雨後のタケノコのようにオープンした「主婦の店」の多くは、流通経路の短縮やローコストオペレーションなどといった、商品を安く提供するための仕組みづくりという本来の課題には取り組んでいなかった。 

 問屋から「大量仕入れ」といって叩き買った安い商品を、単にセルフサービスとキャッシュアンドキャリーの形だけを真似て売るだけの店であったため、すぐに経営不振に陥り次々と閉店していった。

 このため、当時「スーパーとはスーッと出てきて、パーッと消えるからスーパーだ」と揶揄されたものである。マンモスはその生き残り組の一つであり、流通合理化やローコストオペレーションの仕組みづくりに本気で取り組んだ結果、いまや日本有数の小売業者となった。

 早瀬が入社したころのマンモスはすでに年商二〇〇〇億円に達し、さらに急成長中であった。そして早瀬がすごした一六年間はその急成長の真っ只中に当り、まさに目まぐるしいものであった。

 新入社員教育終了後、マンモスの店舗の中で当時最大といわれた神戸の店舗に配属。新卒入社者は一年間、店勤務をしなければならないという社内ルールはあったが、あまりの急成長で本部要員が不足し、入社後四ヵ月で本社へ異動となった。売上高の拡大に伴って組織が膨れ、新しい部署が毎年のように新設され、組織図は半年ごとに改編された。

  マンモスの人材育成ルートは、建前としては店舗コースと本社スタッフ・コースに大きく別れていた。店舗コースでは店の店員からスタートして一~二年単位で転勤を繰り返し、いろいろな店を経験して部門マネージャー、店次長、店長、地区長、地域本部長というように出世の螺旋階段を上がっていく。

一方、スタッフ・コースでは、一度スタッフ部門に配属されるとその部署でずーっと年功を重ねていく。たとえば経理部に配属されると、主任、係長、課長というように階段を上っていき経理部長もしくは財務部長になるか、それとも関連会社の経理部に出向するなどして経理ラインで社員生活を終わる。もちろん中には役員になったりするものもいた。人事部でも同様であった。

  早瀬の場合はスタッフ・コースでありながら同期の仲間とは異なりいろいろな部署、それも新設された部署に配属されることが多かった。

 管理職になってからは新設部門そのものを任され、数年でその部門を軌道に乗せると、そのころ設置された新たな部署にまた移るというような使われ方をしてきた。数年ごとに新しい部署で新しい業務にチャレンジできたのは、早瀬にとって誠に性格的にマッチした使われ方であり、その過程でいろいろな業務を経験できたことをいまでもマンモスの人事部に感謝している。

  「しかし、腹が立つなー」早瀬は思い出を断ち切るかのようにつぶやいて仕事に取りかかった。

 窓の外には一〇月の明るい日差しがあった。デパートの横から三層六階の熊本城の天守閣が、木々の間からくっきりと青空にそびえていた。