6.左遷 ②
「次長~」
声を耳にした途端、ドキンとした。瞬間、何かうれしさもこみ上げてきた。ただ顔には出さず、仕方なく立ち止まった振りをした。そこには顔を少し赤くした真弓が頬を膨らませて立っていた。
「やー、今晩は」
「今晩はじゃないですよ。どこへ行っていらっしゃるんですか」
「いや、もう帰ろうと思って」
「カラオケで次長と歌いたかったのに、いつのまにかいなくなってらっしゃるんですもの」
「若い連中の中でいつまでも物欲しそうにいられんじゃないか」
「店で待つているという約束じゃーなかと」
「だれも約束なんかしてないよ。どうして」
「携帯電話というものがあるんです」
ママか堀が電話をしたようだ。
「そうか、ま、それじゃー」心とは反対に身体は離れようとした。
「何をおっしゃってるんですか。今日はご一緒に飲ましてください」真弓は先回りして立ち塞がった。近くを歩いていた若い男がこちらを見ている。
「ご一緒に、といってもいままでみんなと一緒に飲んでたじゃないか」
「みんなとではだめです」
「でも、もう今日は大分飲んだから」断るのに薄弱な理由を考えている。
「だめです。今日は付き合ってください」
人通りの多いところでいつまでもこんなことをしていたのでは逆に人目を引く。
「仕方ない人だなー。しかしいま出てきた店にまた行くのもいやだしな」
「じゃー他の店に行きましょう」
「行きましょうたって、まさか君と一緒に二人だけで飲むわけにもいかないじゃないか」
「人目が気になるんですか」
「そりゃー気にならないというわけにはいかないよ。さーさー、ママのところに行かないと忙しそうだったよ」客は堀を入れても数人しかいなくて、暇な様子だったことを思い出しながらうそをついた。
「いいんです」
「まったく、困ったな。いつまでも道端でこんな話できないし」
結局、真弓の知っている店に入って少し飲むことになった。
路地を少し入った店だった。BGMが静かに流れている。
カウンターをはさんで、ママが前に座っている男の客と顔を近づけて小声で話をしていた。客はその一人だけだった。
カウンターに沿って足の高い椅子が六脚ほどあり、奥のほうに小さめのボックス席があった。かなり古びた感じで昔は流行った店かもしれない。暗い店内の正面の壁にはシャガールらしき複製の絵がかけられており、幾分かび臭いにおいとともに金木犀(きんもくせい)の香りも少し漂っている。(これはトイレのにおいかな)と思いながらカウンターに座っている客を観察した。知らない人のようだ。
ママが「いらっしゃい。久しぶりね」と真弓に声をかけた。親しいそぶりだ。
真弓も挨拶して、
「大事な話があるのでこちらにすわると。水割りで良いでしょう」
勝手に注文して、一番奥のボックスに早瀬を導いた。カウンターとの間には背の高さほどの仕切りがあり、カウンターの椅子に座っているとこちらが見えないようだ。
「ここなら会社の人が来ても見つからないわよ」
「おいおい、何か怪しげだな。会社の連中も来るのか?」
「この店で会ったことはないわよ。もしきたらの話よ」
ママが水割りとナスの漬物を持ってきたが、挨拶してすぐに行ってしまった。
「じゃー、乾杯。うれしいわ」
「何かいいこと有ったの?」
「知らない。次長はこのところかなり私に冷たいので落ち込んでいたんです。今日は思いっきり飲んで、言いたいこといいますからね。今日は飲もっと」
「冷たいの何のたって、また投書でもされたら困るじゃないか」
「仕事の話で私を避けることはないでしょ」
「避けているわけじゃないよ。もともと仕事の命令は組織系統にしたがってやるのが当然だろ」
「それじゃ、課長を飛ばして堀さんになぜ直接仕事を言っているんですか。それに宇川さんにはやさしいんだから」
「堀君は係長とはいっても課長みたいなもんだし、竹中課長も僕と同じで途中入社でまだ社内全部を知らないからな、君とは違うよ」
「じゃー、宇川さんは?」
「宇川君とはまったく関係ないよ。彼女とは話したこともないよ」
「あ、大嘘つき。おとといコピー室の横でうれしそうに話をしていました」
「あれは仕事のことでちょっと意見を聞いただけだよ」
「あやしい。宇川さんも次長のこと好きなんじゃないですか」
「いやにからんでくるね」
「飲もう、飲もう」
「いいかげんにしないと、酔っ払ったら知らないよ」
真弓はグイッと飲みながら早瀬に擦り寄ってきた。ミニから伸びた、ぴちぴちした太腿の体温が伝わってくるのを感じた。口ではわざと冷静な判断を示していたが、少し飲みすぎた気分のする早瀬はその心地よい体温を避けようとはしなかった。
早瀬の反応を察したかのように、真弓はもたれかかってきて右腕にやわらかいものを押し付け、早瀬の右手を握った。足が少し開くのが見えた。
早瀬は何も考えず、身体を少しずらして真弓の顔にかぶさるようにして、真弓の口を吸った。