六.左遷 ①
「次長、どこへ行かれているのですか」
「あ、堀君。君も帰るの? 僕も帰るところだ」
いつまでも管理職がいるのも気が抜けないだろうと思って、カラオケからそっと抜け出しほっとしていると、後ろから堀が声をかけてきたのだ。
「何言ってんですか。冷たい言い方ですね。逃げ出すつもりですか」
「もう疲れたよ。下手な歌を歌わされて、まいったまいった」
「うまいこと言って、なじみの店にでもこっそり行くんじゃないですか」
「生憎となじみの店なんか無いよ。もう帰る、帰る」
「そんなに、帰る帰る言わんとってください。もうちょっと飲みましょう」
「今日は帰って本でも読もうと思っているんだ」
「本はいつでも読めるでしょう。本は逃げませんよ。それよりも部下の話を聞いてください」
「おいおい、何か魂胆がある感じだぞ」
「いいじゃーなかと。次長と飲むのも、もう一ヶ月ぶりたい」
「この前、例の件で君と飲みに行ってもうそんなになるかな」
「次長は冷たい人ばってん。こちらから誘っても、なかなかウンと言わはらんし」
「飲むのは嫌いじゃないけど、チャンスが無くてね」
「よくいうと。何回誘ったと思っとるんですか。僕を避けとると?」
「堀君、酔ったんじゃないか? 急に肥後弁が混じってきてるぞ」
「何をいわっしゃる。肥後男児は酒には飲まれんとよ」
「仕方ないな。もう一軒だけ行くか」
「仕方ないという言葉は気に入らんばってん、ま、よか。行きまひょか」
今夜は先月末で退職した部下の送別会と新入社員歓迎会があり、そのあと一〇人ばかりで二次会のカラオケに行き、わいわいやってきたばかりである。下通りはいつもよりたくさんの人出で笑い声や喋り声でにぎやかだ。ポットを持って歩く人たちは、桜で有名な熊本城の夜桜見物に行き、花見の宴会をする人たちに違いない。四月の初めには桜も満開になるが、夜はまだまだ冷える。そこで焼酎を熱い湯で割ってフーフー言いながら飲むのである。
「次長は前の会社でも、もてたでっしょ」 堀は歩きながら大きな声で話し掛けてきた。
「何だ、やぶから棒に。改まって変なこと聞くなよ」
「次長は『良か男ごたる』と評判ですたい」
「くだらんこというなよ」
「いまの奥さんとは恋愛結婚なはったと?」
「まあね」
「それまで何人のおなごを泣かしたとですか」
「今日はというか、今日もというかちょっとおかしいんじゃないか」
「酒には酔ってなか」
「君は酔うと熊本弁が丸出しだからわかる」
「そんなことは、なか」
「大体ね、いまどき小学校から中学、高校、大学、そして就職先までずーっと熊本で育つ人がどれくらいいると思う? 普通の人は途中で一度や二度は県外に出て行くもんだけど、熊本一本やりだからすぐに地が出て言葉が方言になるんだ。希少価値はあるけどね。しかし君の方言はいまどきの若い人が使わないような古い言い方も入っていて、私でも理解に苦しむところがあるぞ」
「そげな言い方はなか。仕事場ではきちんと標準語使っとるでっしょ。あたしはむぞか」
「それだよ。そんな言葉いまどき使っている人がいるかい。そういえば送別会ではぐいぐい飲んでたからな。部長の前にすわって何かしつこく言っていたようだし」
「林を辞めさせたのは部長が悪いばってん」
「まあ、君との仲だから率直に言って、否定はしないがね」
「林が部内のプロジェクトチームのリーダーで頑張ってたつうに、それが成功しそうになったとたんリーダをはずして自分がリーダーを兼任して、滔々と社長の前で自分がしたように報告するとは何事たい。部下の功績を奪ってまで社長に誉められたいとね」
「あれにはびっくりしたね。僕も部長に林をはずした理由を聞いたんだが、社長の意向とか言うのでそれ以上は言えなかったんだが、考えて見ると社長が部内のプロジェクトの細かいことを知っているわけ無いし、林のこともあまり知らないだろう。奇妙だとは思っていたけど」
「あれは部長のいつもの手たい。前にも同じようなことがあったと。部下の功績を横取りして出世するので有名たい」
「有名、ってことはないだろう。有名なら社長の耳に入っているはずだし」
「社長は鋭いからとっくに知ってはるんじゃなかと。次長も気をつけてくだはいよ」
「権謀術数で有名なマキャベリにもこんな策はあったかな」
おしゃべりしながら歩き、何気なくエレベータに乗って降りると、いつのまにかマドンナの前に来ていた。
「ここは彼女の店じゃないか」
「そうたい、よく覚えていなはったとね。あれ以来二度目ばってん」
「他の店にしないか、彼女がくるとかなわんし」
「あ、次長、そぎゃんこつ言うてよかと? かわいい部下じゃなか」
「それとこれとは違うよ」
「さあさあ、ドアの前では邪魔たい。中に入っておくんなまし」
薄暗い中へ入り目を凝らして見ると客は一人だった。
「いらっしゃいませ。あら、次長さん、お久しぶり」先客の相手をしていたママが首を伸ばしてこちらを見ていた。
「ママ、やっと連れてきたと」
「なんだい、そのやっとというのは」
「次長さん、堀さんに私がまた連れてきて頂戴と頼んでいたと」
「恐いなー」
「もうこっちのもんですからね」
「堀君、やっぱり他へ行こう」
「いかんいかん。うちの店は一度入ったら出られんとよ。もう少ししたら真弓も来るばってん」
「イヤー、それが困るんだよ」
「次長さん、往生際が悪か」
そこまで言われて、早瀬はしぶしぶとカウンターに座った。三〇分ほど落ち着かない気分で飲んでいたが、新たな客が数人入ってきたので、真弓が来ないいまのうちだと思って腰を上げた。
「さー、帰るぞ。ママお勘定」
「次長さん、もう真弓が来ると、もう少し待ってたも」
「待ってたもという感じじゃないばってん、次長、もう少しだけ」
「いやいや、今日は大分酔った。帰る」
「そうたい、じゃーあたしも帰るとするか」
「二人でなんば言うとると、帰る帰るの合唱で見苦しかね。うちが真弓に怒られると」
「また機会があれば来ますから。堀君を人質においていきます」
「次長、ひどかね。人質とは」
「まあ、ゆっくりしてや」
早瀬はどうにかほうほうの体で店を飛び出した。真弓に会えなかったのは残念な気もするが、二次会を終わった連中の誰かがこの店に来たらことである。早く店を離れようと、下通りの人混みを目指した。