六.左遷 ⑥

 引出しをあけて中のものを整理し始めた。(わずか一年あまりでよくこれだけ書類がたまるものだ。そうだ引継ぎ分を部長宛てと竹中課長宛てとに分けなければ)机の上を片付けて広くし、左端を個人用もしくは顧客対応部に持っていくもの、中央が竹中課長引継ぎ分、右端が部長引継ぎ分として、引出しやキャビネットの中の書類を取り出して分けていった。会社の組織や通達事項など顧客対応部でも必要なものが高く積まれた。本来なら次長用としておいていくべき物だが、後任がいないのでは不要だろうと考えた。

 山本がどこからか書類収納に使うダンボール箱を持ってきてくれたので、自分用のをそこに入れていった。部長引継ぎ分は最も少なく、いま検討中のもので部長に報告していないものはわずかであった。竹中課長へも殆どない。常に打ち合わせをしてきていたので、引き継ぐまでもないことが多い。

 一応分類したあとパソコンに向かって引継ぎ事項一覧表を作成した。後で竹中課長が困ることがないようにコメントなども書き添えた。引継ぎ書類を作ることはこの会社では義務付けられていないが、マンモスで転勤を繰り返すうちに自ら作成するようになった。マンモスではライン部門での店長や店次長の引継ぎには引継ぎマニュアルというものがあり、転出者と新任者とのあいだで相互に確認印を押す仕組みがあった。スタッフ部門にはそういうものは無かったが、早瀬はどの部署でも作成し後任のものから喜ばれたのである。

 

 一つ一つの書類を見ながら関連することを思い出していると、

「次長」

という声がした。すぐに真弓と分かったが、トンボの目と全身耳を意識して普段通りに返事した。「はい」

 極力平静に声を出したつもりであるが、早瀬の頭の中では、彼女との対応をこれからどうすべきかが駆け巡った。

 真弓はなぜか怒ったような顔つきでにらんでいた。

「この書類はどうしましょうか」

「あ、それはちょうど良かった。目を通して引継ぎしなければと思っていたところだ」

「じゃ、置いておきます」

 もっと何か言うかと思っていたが、真弓はそれだけ言うと回れ右をして行ってしまった。

(他の部員と同じようにお祝いの言葉か何か言えばいいのに・・・)

 そう思いながら書類を見ると書類の間からピンク色をしたポストイットの端が出ていた。コメントかなと思ってあけると、真弓の字が目に飛び込んできた。

「ご昇進おめでとうございます。昨日から知っていました。IBM」

 「IBM」とは「いつもの、場所で、待っています」というローマ字の頭文字である。早瀬が大学生のころ少しの間、付き合っていた女性が授業中にIBMと書いたメモをよく回してきたのを思い出し、この前、真弓を抱いた夜、雑談交じりに話したものだ。それを覚えていて使ったのであろう。

 先ほどの顔つきは険しかったが、ポストイットの感じではそんなに怒ってはいないようだった。これから彼女とどうするかということはまだ思いは定まってなかった。昨夜酔って帰る道では(もう付き合うのはやめよう)と思っていたが、今朝、出社するときには(もう少し付き合ってみたい)という欲望もあった。いずれにしろ話し合うことが必要だと考えていた。

 生憎と今夜はすでに先約があった。マンモス時代にお世話になった上司がアイニードの役員として博多に赴任してきて、今日は有明百貨店の視察に来られている。数日前に電話があり、久しぶりに熊本で飲もうということになっていた。今夜は駅前のホテルニューオークラ泊りということなので、多分深夜まで付き合うことになるだろう。何年振りかで顔を合わすのに、途中で失礼しますとは言えそうに無かった。

(仕方ない、今夜はダメだな)

 しかしどうやって彼女に連絡するのかが問題であった。

(同じようにポストイットを使うか・・・、書類を返すフリをして)

 早瀬はいったんダンボールに入れた引継ぎ書類をまた机の上に積んで、その影でポストイットにメモした。そして廃棄処分する予定の書類に挟んだ。

 もう一度引継ぎ書類を片付けながら「えーと、これはもういらないかな」とわざと声を出して立ちあがり、トイレに行く振りをして真弓の席にまわった。

「これ、もういらないと思うけど、チェックして要らなければ廃棄処分して」と真弓に書類を渡した。いつもより周りの視線を強く感じた。部下たちは投書の内容を知っているに違いない。俺が真弓に近づくとイージス艦になりきっている感じだ。早瀬はそう思いながら足早に廊下に出た。