九.コンクール ⑨

 早瀬はこちらに来てからは車通勤でもあり、退社後下通りをぶらつくことも少なくなっていた。それに九月からは電話応対時間が夜九時までになり早瀬と石川がほぼ交代で最後まで勤務している。だから飲みに行く機会はかなり減ってきていた。

 秘書がいるというのはまことに便利であるが、不便でもあった。いつも横に斉藤が座っており、かかってくる電話は斉藤がほとんど先に取った。自宅では妻が、会社では斉藤が見張っている気さえするほどだ。だから真弓も電話できない状態となっている。もちろん早瀬の自宅にかけてくることも出来ない。社内郵便にしても、斉藤が全て封を開けて整理して渡してくれる。

 実は早瀬はこの携帯時代に携帯電話を持っていなかったのである。会社には机の上に二台受話器があり、もちろん自宅にも黒電話がある。妻や娘は携帯を持っている。それで別に不自由は感じなかった。

 しかし、真弓はイライラの状態となった。

「顔も見れないし、電話も出来ないし、それなら毎晩店に来て!」

 もちろん毎日店にいくのは不可能であったし、付き合っているところを社員の誰かに見られると最悪である。社員だけではない。代理店や取引先など顔見知りが増えているので、狭い熊本のそれも下通り界隈で一緒に歩いていれば誰かに見つかる恐れは十分にあった。

 早瀬としてはいつまでもこの過ちを続けるわけにもいかず、このまま「音信不通」の状態で自然消滅も仕方ないというずるい気持ちも反面、あった。

ところがしばらくして、真弓は堀を通じて誘いをかけてくる方法を見つけた。

「部長、今夜早番でしょう? 真弓ちゃんがタマに飲みましょうって言ってます」

 しかしこの方法も、堀が早瀬と真弓の関係を知らない以上、真弓はそう何度も使うというわけにもいかなかった。真弓が何度もいうので、結局やむなく携帯電話を買うことにした。仕事上は全く不要であり、最初は妻も「何に使うの」と不信顔であったが、いまどき持っていないのが変だということで納得したようだった。

携 帯電話のおかげで真弓からの連絡は楽になったが、しかしそれにしても勤務中にバイブを何度も響かして廊下に出たりトイレに行くわけにもいかず、真弓には必要最低限のみの使用と言っておいた。

 真弓と会うとき、彼女のおばさんの店に行くのは堀が同行するときだけである。その店に行かないときには例の怪しげな店で待ち合わすことにしていた。この店は金木犀の香りをいつも充満させているような店で客も少なく、ママも挨拶し水割りを作り、手作りのつき出しを持ってくるだけであとは近寄ってこなかった。客がまったくいないときには、たまに同席してたわいもない話をしてにぎやかにすごすこともあったが、それでも余計なことは干渉しないという態度が心地よかった。

 この店で待ち合わせて水割りを数杯飲んで真弓の話をたっぷり聞いて分かれるだけの日と、そのあと近くの四つ角にいつも停まっているタクシーに乗ってホテルに向かう日があった。店を出てタクシーに乗るまではヒヤヒヤの連続である。アメリカの大統領が狙撃される危険性の高いのは、建物の出入り時と車からの乗降時といわれるがタクシーに乗り込むとき、車内ランプがついて顔が遠くからでも見られる状態をいつも恐れた。

 もっとも真弓と会うこと自体少ないし、幸いこれまでのところは誰かに見られたという形跡は無かった。しかしその危険性は今後は高まってくるだろうなと感じてもいた。道を外れた行いをしているという意識が、見つかったらそのときさという自暴自棄の気持ちになったり、だめだいつまでもこんなことをしていてはという自省になったり、交互に繰り返して訪れていた。

 早瀬はいまの家庭を崩壊させる気は無かった。ずるい考えであることはしっかりわかっていた。だから彼女と結婚できない以上、彼女を自分の肉欲で持てあそぶようなことはしてはならなかった。はやく決着しなければという気持ちを持ち続けていた。