十二.フィナーレ ①
「部長、本社の七不思議が一つ増えましたよ」堀からの電話であった。
「なんだ」
「例のタペストリー盗難事件ご存知でしょう?」
「あれは不思議だな。なんと三千万円もするものらしいよ」
「実はよく調べると、絵も無くなっていたらしいですよ」
「エ~、本当かい」
「一つしかない応接室に飾っていた何とかいう有名な絵ですが、何ていいましたかね。あれ本物でしょう?」
「ルーベンスだったかな、題名は覚えていないが。あれがなくなったのかい、大きな絵だったよ。本物かどうかは知らないが本物だとかなりの代物だぞ。それが盗難?」
「そうらしいですよ」
「あんな大きな絵を持ち出せばわかるだろうに」
「いえ、額はそのままで中身だけ抜き取っていたらしいんです。総務部長が何度も中に入っていたのに額縁があるので気づかなかったとか言い訳しているようですよ」
「タペストリーも壁にはかけていたけど大きなものだから、たとえ巻いていても持ち出せば誰でも気づくだろうに」
「まさに不思議でして、どちらもいつ無くなったか誰もわからないらしいんですよ」
「いい加減な話だな。本社の警備は従業員の出入りばかりに気をとられて、持ち物検査などほとんどしてないし、しかししてなくても大きな物を持ち出していれば誰何(すいか)するのが常識だろうが。警察には届けたのかい」
「いまのところ届けてないようですよ。不祥事を外に出さないようにしているのかと思いますが。それに社員や警備員も絡んでいるのかもしれませんからね」
「オイ、うかつなことは言うなよ」
「すみません。で七不思議にご加入というわけですよ」
「七つもあったかな。あとの六つはいずれ今度時間があるときにご教示願いたいね」
「それでこの盗難事件のあと、残業禁止令が出まして、夜は暇なんですよ」
「そうらしいね、だけど僕は盗難事件に関係なく、基本的に残業禁止に大賛成だな」
「何でですか。本社は五時半に社内放送があって『あと三十分以内にお帰りください』って流れて、そして警備員が社内巡回し、六時になるとシステム部以外は電源を切られるんですから、一方的ですよ」
「システム部は仕方ないだろうが、電源切られたらそれは困るだろうね」
「そうなんですよ。まだ窓の外は暗いし、非常灯の明かりの下でごそごそして帰るっていうのはなんか惨めですよ」
「しかしね、朝九時から一生懸命に仕事したらだいたいの仕事は五時には終わるぞ。夜七時とか八時まで惰性で残っているのが本当は多いんじゃないか。上司の顔色を気にしながら残業しても効率は上がらないと思うよ。五時に帰るってなると朝から仕事ぶりが違うし、八時までということになると却って昼間の仕事がのんびりしてしまう。これはボクのこれまでの経験だけどね」
「そういわれて見ますとそんな気もしますね。用事があって今日は早く帰ろうと思っていると日中の仕事をてきぱきとやることがありますから」
堀の電話が切れたあと、本社で何が起こっているのかと気になった。堀と話した内容を再度考えてみたが、あれだけ警備員が各出入り口に立っていて、絵や絨毯などの大きなものが出入りしたら警備員でなくても気づくだろうに。そういえば半年近く前に物流本部に異動になったころ、物流本部一階受付の前を会議用に使う折りたたみいす一脚を総務部からもらって持って歩いていたら、受付の女性が「それ、どちらへ持っていかれているのですか」と聞かれたことを思いだした。部長のオレがいすを一つ持って歩いただけで声をかけられたのに、本社での盗難事件は信じられない気がした。
十一.クレームの秋 ⑦
「真弓っちゃん、これは穏やかならざる発言たい」
「生駒さん、問題発言だな」竹中も同調した。早瀬は一瞬ドキッとする思いがした。
「いいえ、なんでもありません。そう思っただけです。もっと飲みましょう」
「あやしいばってん、このところ仕事でもミスしたり、なんかあるたい」堀が詮索の言葉である。早瀬は話題をそらそうと努めた。
「堀さん、この前言ってた例の件ね、どうなった」
「何でしょうか」堀は改まった声で返事をしてきた。
「もう忘れたのかい」
「なんば言わなはってると、またくおぼえてなかと」
「君は物忘れがひどいんとちゃうか、まだそんな年でもないだろう」
「そんな言い方はひどか。誰だって忘れることはあるたい」
「そりゃ人間は忘れる動物って言うからね。しかし君はいつも人の話をしっかり聞いていないんじゃないか。だから忘れるんだ」
「聞いてますよ」
「とっとの三歩ていうことばを聞いたことがあるか」
「いえ、なんたい、とっとって」
「鶏のことだけどね。鶏は三歩歩くと忘れるって言う意味だ」
「ホントですか」
「心理学者の調査によると、鶏は前方のえさを見てそこへ行こうとして三歩あるくと、いま自分は何をしにどこへ行こうとしているのか忘れるらしいね」
「冗談たい」
「いやこれは専門書に書いていた」
「えー、そうですか」真弓も笑いだした。
「だから君の物忘れを見ると、いつもとっとを思い出すんだよ。確か君は酉年だったしね」
「ひどか、それはあまりにひどか」
「堀さん酉年だったの」真弓も機嫌を直したらしく、後ろにのけぞるようにしながら笑った。
「それはそうと、先日、社長の健康診断結果表が配布されたね」
「あれにはさすがの私も驚いたと」堀が顔を膨らしながら言った。
「私の入社以前には無かったのかい」
「初めてたい。あげなの」
「添付されていた通達文書には『社長はこんなに元気だから安心して業務に励むように』とあったが、何かあったのかな」
「実は」情報通の顔に戻った堀はしたり顔で声をひそめた。
「やはり何かあったのか」竹中も知らないらしく顔を近づけてきた。
「ばってん、投書があったらしか。社長がこのところ元気ないようだ、身体の具合がよくないのかも、そろそろ後継者が話題になるかなんてある部長が言ってなはったとかいう」
「そうか、投書か? しかし社長は今日も決裁で、元気一杯叱りとばしていらっしゃったよ」竹中がまじめな顔をして首をかしげた。
「その部長には何のお咎めも無かったたい。ばってん、社長ご自身の中でなにかあったのかもしれんとが、元気なことを社内に示しておこうということではと思ってるたい」
「社長ご自身の中にね~。堀君は心理学者だからな」
「何をいいなはとっと」
「そうですね、なにかあるからこそ、こういったことをされるんじゃないですか。それ、火のないところに煙は立たないってよく言われますからね」
「課長も気にならはっと」
「そりゃ、社長あってのサフィールだよ。部長、そうしますと逆に心配になりますね。実はこんな話もあるんですよ。人事部のものが言っていたんですがね、四十歳以上の社員の健康診断が先月行われましたが、なんと九割の人が内臓をやられているようですって」
「ほ~、ストレスが原因か。幸い俺は大丈夫と思うけど」
「そうすると、管理職のほとんどが再検診組だと言うことで、しかし社長の私は大丈夫だよということをおっしゃっているのでしょうかね」竹中がしたり顔に言う。
「ピンポンだな、そんなところだろう。ま、堀君はストレス無縁だろうが」
「何言いなはっと。めっそうもなか。あたしゃ、ストレスのかたまりたい」
早瀬は(気の知れた仲間との酒は楽しいな)と思いながら、気になってそっと真弓の様子を見た。だまって笑みを浮かべて話を聞いているようだったが、しかしそれは早瀬には何か脅威であった。
十一.クレームの秋 ⑥
コンテスト練習中のモニターを聞いているときに堀から電話があった。
「お忙しいところ申し訳ございません。マーケティング部の堀でございますが」
「何だ、改まって。さてはオペレーターになりたくて言葉使いを練習しているのか」
「冗談きついですよ。コンテストの練習していると斉藤さんが言ってましたからそれにあわせて丁寧な言葉遣いをしてみたんですがね」
「残念だけど、今年の応対内容にはヤーさんは登場しないんでね。もし来年にでもそういう場面があれば堀先生に役割を担当してもらいますから」
「何とおっしゃる」
「で、何か御用?」
「冷たい言い方ですね。実はね、生駒さんが最近元気なくて、その上、仕事のミスをしたりしてるんですよ。部長もご存知のように、彼女はうちの部のぴか一で仕事は任せて安心という人でしたから、どうしたのか心配でしてね」堀は声を低くして言った。
「・・・」早瀬はどういっていいかわからなかった。その理由はこのオレにあると言いたかった。
「そこでね、部長。元気をつけてやろうと思いましてね、課長と相談して明るくパーッとやりませんか、というお誘いなんですがね」
「自分の部のことだから僕が出るのもおかしいんじゃないか」
「何とおっしゃる。それは冷たいですね。かわいい元部下じゃないですか」
「要するに、生駒さんのことをだしに一杯行こうってことだろうが」
「ま、そういえば実も蓋もありませんがね。ま、そうおっしゃらずに久しぶりにパーッと」
「生駒さんの元気付けというより堀先生の元気付けみたいだな」
その夜は次長が早帰りの日だったのでったので、十時ごろに後から行くと伝えて電話を切った。早瀬は気がふさいだ。あのしっかりものの真弓が仕事上のミスをするなんて、それも二度も。気が強そうに見えても女の子なんだな、と思ったがその原因は早瀬にあり、自分の犯した過ちがとんでもない大きなものだったと気が滅入った。
十時ごろ下通りから奥に入った待ち合わせの店に行くと課長の竹中と係長の堀、そして真弓がテーブルを囲んでわいわい言っていた。堀はすでに赤い顔をしており、真弓は生成りのワンピース姿で元気そうであった。
「部長、遅か」口の端に焼き鳥のたれを付けた堀である。彼の前だけが皿や串やキャベツの残骸で荒れ狂っている。
「遅かったって、仕事なんだから。堀君、もう相当酔ってるんと違うのか」
「肥後男児は酒には飲まれんとよ」
「課長元気?」課長にも声をかけたが、こちらも赤い顔をしている。
「生駒さん、久しぶり。どうですか」真弓に声をかけると、真弓は上目使いに、
「はーい、課長に叱られてます」
「何をいうんだよ、叱ってなんかいないよ」と真顔で竹中が憤慨したように言うので大笑いであった。早瀬は竹中の横に座り生ビールを注文した。
「部長、受注課の除野さん、結婚したんですってね。彼女は以前うちの部の古田と付き合っていたんですが、結婚するって言うのでてっきり相手は古田と思って、古田におめでとうといいましたらぶすっとされましたよ」
「へ~、古田と付き合ってたのか。結婚式に会社代表で行ってきたんだけどが新郎は福岡の人らしいよ。見合いだったらしいね。古田は捨てられたか」ビールをぐいっと飲んで、
「結婚式といえば今年はひどい目にあっているよ」と早瀬は竹中に同情を求めるようにつぶやいた。
「どうかしなはったと」堀が割り込んできた。
「うちの部には若い女性がわんさといるだろう、それがこの秋は結婚ブームでね。十月から毎週結婚式だよ」
「ばってん、前の荒木部長も『若い女性が多いと結婚が多くって』て言いなはってたと」
「次長に聞いたら『今年はとくに多いですね』って言ってたよ。1日に二組あるときには次長にも出てもらうんだが、この前なんかは三組もあってね、オレと次長で間に合わなくて荒木部長にも出馬願ったよ」
「それは大変でしたね」
「しかしこの会社のありがたいのは、管理職が出席するときには、会社から祝い金が出て管理職が自分の金のようにして持っていけるんだから。つまり自分の金を出さなくてもいい仕組みだな」
「そうたい」
「これがすべて自腹だと我が家は破産だ」
男たちがにぎやかに話しているときに真弓がぽつりと言った。
「いいですわね、結婚できる方は」
十一.クレームの秋 ⑤
「しかし、そうしてますで終わるのももったいないね。次長、さっきのクレーム客の再注文について何かデータ的に出ないものだろうか」
「そうですね。クレーム件数は正確な数字が出ていますが、そのうち何パーセントのお客様が納得されてリピートされているかは掴んでいませんね」
「クレームのお客様が再注文されたかどうかは、コンピューターで照合すれば時間はかかるかもしれませんが出そうですね」黒田課長が発言した。
「ただ、その再注文があったとしても納得されてのご注文かどうかは・・・。電話受注でしたら感触でわかるのですが」小早川が今日はよく発言する。
「サフィールはいやだが、やむにやまれず仕方なく注文するっていうのもあるかもしれないね」
「電話でお聞きしていますと、お年寄りや赤ちゃんを抱えているお母さん、ご病人のいる方、近くにお店がない方などたくさんのお客様がご注文されていますから、そういうお客様はよほどのことがないとウチの会社に注文されているような気がします」小早川である。
「ありがたいことだな。それだけにクレームをなくすように、クレームが出ないようにしないといけないな」
「部長、全数調査は難しいと思いますので、サンプルでやってみましょうか」次長が言った。
「ああ、それも一案だね」
「たとえばクレーム客一〇〇名様についてそのクレームの内容と対応担当者の自己評価を記入し、その後半年間でリピートがあったかどうか、場合によってはその一〇〇名様に対応した者以外の人間が直接お電話して、対応へのお客様ご自身の評価やその後のご注文をお聞きするというのはどうでしょうか」
「それはいいね。対応課の担当者にとっても自分の仕事ぶりがわかるし、それが会社に貢献していることもわかるし。一〇〇人位だったらみんなで手分けしてできるか。どこかのQCサークルのテーマにぴったりだと思うが、これはこれで管理職でやって見るか」
部内会議は次第に活気のあるものになって行く気がした。
その翌日のことである。
「部長、お客様からの問い合わせがありましたが、うちの会社では何かいまアンケート調査しているのですかって」
オペレーターが直接ヘッドホンをしたまま早瀬のところにやってきた。何か問題があると主任や小早川課長に聞いて、それでもだめなら次長段階で解決しているのが常であった。だからオペレーターが直接やってくるのは珍しい。視野を広げると小早川は席にいず、次長は下を向いてしきりに何かしている。
「え、アンケートかい? 聞いてないけど。マーケティング部で何か始めたかもしれないが、それなら事前に必ず連絡があるはずだが。どういったアンケートかお聞きしたかい」
「はい、なんかいやらしいアンケートだそうです」
「いやらしい?」
「なんだい、それは」
「へんなことを聞くアンケートらしいのですが」
「変なこと? ボクが出ようか」
「すみません。もう切れてるんです。お調べして折り返しお電話しますと答えているんですが」
「じゃーちょっと詳しく聞かせてよ」
オペレーターに聞くと、お客様の家に『サフィールですが、いつもご利用ありがとうございます。実はいま簡単なアンケート調査をお願いしているんですが、少しお時間よろしいでしょうか』という電話がかかってきたようだ。
お客様はサフィールならと気軽く了承してアンケートに答えていくと、最初は商品や配達のことを聞いていたのが、次第に『結婚して何年になりますか』とか『恋愛結婚ですか』『お子様は何人ですか』『ご主人とは週または月に何回セックスされてますか』『結婚してから他の男性と付き合ったことはありますか』『今は何色のパンティをはいていますか』などとへんなことを聞いてきたそうである。サフィールを信用して答えていったが、後で考えるとどうもおかしい、恥ずかしいことを答えたと思って、もしやとサフィールに確認の電話をしたとのことだ。
こんなアンケートをうちの会社がするわけが無い。マーケティング部に照会するまでも無いことだ。ちょうど小早川が席に戻る様子が見えたので彼女を呼んだ。
「いま、山内さんから聞いたんだけど、うちの会社の名前を騙ってへんなアンケートをしているというお客様の苦情が入ったんだ。うちではそんなことする分けないのでもしそういう電話が入ったらはっきりとお客様に伝えて。そしてもしアンケート調査の会社名や担当者名、電話番号をお客様がお聞きしていないかも確認して」
小早川はすぐに主任を呼び集めて口頭で指示をしていた。
この件は報告しておかねばと本部長に内容と対応を報告し本部長から社長に報告を上げてもらった。また本部長の指示で総務本部の広報担当者にも伝えて、万一マスコミで何かあれば即応してほしいと依頼した。
(今月はどういう月だろう、次々といろんなことが起こる)窓を振り返って阿蘇を見た。(この調子では真弓との関係も問題が起こるかもしれない・・・。今日は煙の量が多いな)と白煙を見ながらいやな予感がした。
その予感は当たった。
携帯電話が震えた。真弓からメールが来ていた。そういえばこのところ彼女とは会っていない。室内に背を向けてそっと携帯電話を開いた。
「ずいぶんお目にかかっていないのですが、一年以上も。もう私のことはお忘れになったのではと沈んでいます。そこの窓から阿蘇が見えるとお聞きしましたが、火口に飛び込む姿が見えるでしょうか」
早瀬はおどろいた。1年以上もとはかなりオーバーであるし、火口に飛び込むとか言うメッセージにショックを受けた。何げない風を装ってトイレに向かった。そこに誰もいないのを確かめ、洋室便器に蓋をしてすわり、メールを打ち込んだ。
「ごめん、このところクレームが多くていそがしくて。いまは時間がないので今夜電話するから」トイレの中で、しかも言い訳先行で情けなかった。
その夜、彼女に電話して何とかなだめたものの一度会う必要があると痛感した。
十一.クレームの秋 ④
早瀬は春夏カタログを取り出してページをめくった。該当商品は手ごろな値段でかわいい感じのする上下であった。
「クレームの商品はこれだけ?」
「はい。マーケティング部に問い合わせると、この子供服はヒット商品だったとのことです」
「なるほどな。で、そのときのお客様は返品を望んでいたんですか」
「返品をはっきり希望されているのはたしか五人中一人だったと思いますが、それは受けました」
「なるほどね。売れすぎるゆえの悩みもあるってわけか」
アウター衣料はえてしてこういうことが起こりがちだ。下着なら同じ物でもほとんどわからないが、アウターとなるとすぐに気づく。女性だけでなく男性でも、同じ柄のネクタイをしている人とばったり会うと気まずいものである。そういえばスーパーでも同じ色柄のものを一緒に置かずに分散して、ちょっと見ると一点もののようにしないと売れないことを思い出した。ヒットしなければ困るがヒットして売れすぎるとバッティングがどうしても全国のどこかで発生してしまいそうだ。通信販売の弱点かもしれない。
「クレームについてはアメリカでグッドマン理論というのが有ってね」部内会議でクレーム削減について議論しているときに早瀬が話しはじめた。
「グッドマンつまり善人という直訳だけど、クレーム処理に納得されたお客様は再度注文、つまり購入される確率が高いってことです。だから対応課の皆さんが誠意をこめてクレームを解決してくれて、お客様がそれで納得されると次の注文にもつながるということですね」
「グッドマン理論ていうのですか。初めて聞きました」黒田課長である。
「でも部長、そういった難しい理論は知りませんが、私たちはそういった事例をこれまでの仕事で何度も経験して来ました」今度は受注課の小早川が珍しく発言した。彼女は受注課一五〇人を束ねる柱である。大学は出ていないが生え抜きに近い存在だ。会議等では控えめであるが課内を掌握しており、ある意味では誰が上に来ようと課内については任せてくださいっていうところがある。しかし勝手に突っ走るという意味では決して無く、会社の方針や部の方針を理解して、細かな指示を受けなくても確実に処理して行くという面があり頼もしい存在でもある。
「えぇ、そう。それはうれしいね、ちょっと教えてくれるかな」
「はい。これはウチの課というよりも対応課の皆さんがよくやってくれまして、その結果ということなんですが、ご注文の電話がかかってきたときに画面にお客様の購買履歴やクレーム内容の表示が出るんですが、そのとき内容によってはお客様に『先日は当社商品に問題があり申し訳ありませんでした』とお詫びするようにしているんです。そうしますとお客様のほうから『アレは私のほうが勘違いして』とか『男性の社員の方がよく説明していただいて納得しましたよ』とか言っていただくことが多いんです。そしてお客様は『お宅の対応がいいからまた注文します』という言葉をかけていただくことが多いんです」
「なるほどね。つまり、もう皆さんはとっくに実践されているんだ。これは私の認識不足ですみません」
「いえ、そういう意味では」小早川は歳にも無く顔を赤らめている。
「私みたいなのをなんていうか知ってますか」皆きょとんとしている。
「私みたいなのを『でわの守』っていうんですよ。『アメリカでは』『どこそこでは』ってでわでわっていう人のことをね」
全員大きな声は出せないが顔で大笑いである。
「みんな、ちょっと笑いすぎだよ」早瀬も怒ったような顔をしたあとニコニコした。
「そういえば、セミナーなどに行きますと大学の先生やコンサルタントが『アメリカでは』ってよく言ってますね」黒田がまじめな顔をして言った。
「ま、アメリカの事例を紹介するというのも必要かもしれないな。日本の流通革命といわれる昭和三十年代にはその後日本で大きなスーパーとなったダイエーやジャスコ、西友ストアなどの当時若き経営者がアメリカ詣でをして、日本にその仕組みを取り入れたこともあるし。流通業界ではいまでもアメリカの先進性は役には立つと思うのだけどね。おっとこれは自己弁護かな」
「通販業界やネット販売もまだまだアメリカのほうが進んでるといわれてますからね」次長も頷きながら同意した。
十一.クレームの秋 ③
二日後に帰社して報告を受けた。
「高松には飛行機の直行便が前には有ったんですがいまは無くて、新幹線で行きましたが、半日がかりでした。それで家を探しましたら高松市のはずれの古いアパートで、その二階で、部屋には誰もいなくて扉の郵便受けには宅配の不在票がいくつも挟まれていました。見ると他社の通販商品のようで日付を見ると前日と当日の分でした。ということは今日あたり帰ってくるかもと思いまして。両隣の部屋もノックしてみたんですが不在の様子で、1階の部屋の人をちょうど見つけて聞いたんですが、二階の人のことはわからないということでした。結局交代で部屋の入口を見張りました。もちろん気づかれないようにしましたが」
「大変だったな。で、結局その客は帰ってきたのか」
「夜の十時ごろに帰ってきたので、警備の彼と踏み込みました。中年の女性で、最初はドアを開けてくれなかったのですが、近所の人に聞こえますよというとドアを開けてくれまして玄関で話をしたんですが、室内はカップ麺やペットボトルや何やかやの乱雑状態で、奥にも部屋があるので見えたのですが通販商品らしき段ボール箱が山積み状態でした。女と話をしたんですが、まったくノラリクラリで支払いの意思はまったく無い様子でした。警備の彼もこれは警察沙汰にするしかないかという意見で、とりあえずは社長の決裁を得て告訴ということを考えて帰ってきたのですが」
「そうか、たいへんだったな。その方向で報告書を作ってくれんか。万趣会やニッサンなどの他の大手通販会社に問いあわせたら、各社とも調査したら同じ客だったとかでびっくりして、感謝されたよ」
「そうですか、他社の商品もたくさんあったようですからね」
「ということでわが社が単独で告訴するか、連名でするかは本部長と相談して社長に決裁してもらうようにするよ」
一方、クレームもこのところ頻発していた。
秋冬カタログを発行した翌月の、九月ごろのクレームや問い合わせは注文したのに商品がまだ着かないというものが多く、次に多いのは商品は届いたがカラーが違うとか数量が違うといった出荷ミス、そして宅配業者の態度が悪いとか言うのが多い。
十一月に入ると、商品そのものに対するクレームが増えてくる。つまり使ってみて不具合が出たというものである。九月ごろのクレームはある意味で容易であるが、品質や使用上の不具合についてのクレームはかなり神経を使う。
出荷件数に対するクレーム率は早瀬が入社する前には最大時に一%を超えたことがあったようだ。一%というと数字上は非常に少ないと見えるかもしれない。現にバイヤーは「わずか一%でしょう」という発言をすることが多い。それに対して早瀬はいつも、
「一%という数字は少ないように見えますが、出荷件数月間百万件で見るとなんと1万件ですよ。どこの小売業が毎月1万件ものクレームを発生させていますか。このような状態を続けていたらいずれうちの会社はお客さんから見放されますよ」
と強く主張するのが常であった。
その一%も最近は少しずつ減少してきているが、それにしても比率で無く件数で見るとまだまだ大きな数字となっていた。
季節的なクレームもある。たとえば今春には「こんなクレームがありました」と次長から聞いていた。
「部長、今年の四月にはお客様から同じようなクレームが五件届いたことがあったんですよ」
「同じようなクレームがそんなにとは、聞き捨てなら無いな」
「今年初めてでしたが、詳しく調べたらもっとあったかもしれませんが」
「おいおい、穏やかじゃないな。いったいどんなクレームだ」
「えーと、簡単に申し上げますと子供が同じ服を着ているっていうことで」
「制服だろう」
「イエイエ。そのときのメモが残っているのでちょっと読んでみます。『三月の初めに、いつも利用している御社で今度幼稚園に入る子供の入園式の服を買いました。昨日それを着せて入園式に行きますと、なんと同じ服を来た子がいるわいるわ・・・で恥をかきました。かわいい服だったので気に入って買い、本人も喜んでいましたが、子供があの子も同じ服着ているよと大きな声で言ったので恥をかいてしまいました。おたくで服を買うのも考え物です』ということですが」
「ほかのも同じ内容か」
「同じ地域からではないんですが、ほかの幼稚園でも同じようなことがあったんだと思います」
「ちょっとカタログを見てみようか」
十一.クレームの秋 ②
社長室に役員が集まって討議した内容は、本部長から聞いた。
社長が箱を開けて中を見て激怒されたようだ。ミキサー本体に蓋が無くしかも刃には防護カバーもされていないとはどういうことか、ということを厳しく追求された。
「これでは誰でも指を切るだろう。一件だけだったのは本当に幸いだった。メーカーとの商談時になぜこのあたりを気づかないのか。バイヤーはまったく問題意識なしに掲載商品を決めているのか」
こっぴどく叱られたようである。
メーカーは在庫商品を持ち帰り、蓋と刃のカバーをしっかりつけた状態にした。しかし当社での取り扱いは当分中止とし、今後のご注文に対しては品切れでお詫びするということになった。すでに商品が届けられているお客さんには改善されたものを送り、古いのは危険ということで業者が引取りを行うこととなった。
「やれやれ、一件落着だな」と次長に話しながら、カタログ掲載商品を安全性の観点から顧客に最も近い当部としてもう一度見直すことを指示した。もちろん早瀬自身もチェックを始めた。
早瀬は阿蘇の山を眺めながら今回のわれわれの対応に問題は無かったか、他により良い手段は無かったかとつぶやいた。中岳は白煙を上げている。
カッター事件が落ち着いたころ、今度は入金処理化の黒田課長が声をかけてきた。
「部長、おかしいのがありました」
「またドキッとするようなことを言うなよ。おかしいのは君じゃなかったけ」
「いやですよ、部長。私は常にまともですから」
「そういうのがマーケティング本部にも一人いたな」
「堀さんのことですか」
「イエイエ、個人情報はいえません。それで何だ」
「何だはひどいですね。支払の遅れているブラック客のリストをハードコピーにして眺めていましたら見つけました。電話番号は別々ですが、住所、つまり商品の送り先は同じというのが」
「そうか。電話番号が同じなら番号名寄せですぐに支払がないことが判明して、以後のお買い上げは停止となるが、そのあたりを知っている客か」
「はい、そうです。この客は、電話番号はばらばらで違うんですが、ちなみに数件かけてみましたら使われていませんというのばかりでした」
「そういう番号をうまく選んだものだな」
「しかし通販は商品の送り先が必要で、それは自分の家か一定の住所にしないといけませんからね」
「うん、君は偉い。よく気づいたね。いま頃」
「それはほめているんですか、けなしているんですか」
「もちろんほめているんだよ。で、その客の売り掛けはいくらぐらいになる?」
「十四件で二十四万円あまりになります」
「十四件もあるのか、一件当たり一万七千円ぐらいか」
「そうです。初めてのお客様に後払いで商品を送る限度額が二万円ですから、うまく読まれました」
「初めてのご注文で合計金額が二万円超すと、先に代金を支払ってもらうという仕組みだからな、敵も考えたな。で、どうする?」
「はい、通常なら督促状とか内容証明とかになりますが、個々の注文商品に対する入金遅れについては既に出していますから、今回はこの住所に直接行ってみようと思うんですが」
「そうだな、この総額について内容証明を出しても効果は無いだろうし、高飛びされても困るから突然訪問するか。君が行くのか」
「四国の高松ですが、よろしいでしょうか」
「課長については社長承認が必要だから本部長にそのリストを持って説明に行って承認してもらおう。それと、君一人ではだめだから警備員の中に県警出身の猛者がいるらしいので、その人と行くということで了承してもらうようにしよう」
課長と警備担当者の出張は社長承認が得られて、数日後高松に向かった。