五.社内販売 ①

 サフィールは創業社長の強い個性で、ある意味では個人商店を大きくしたような会社であったから、組織論でいうところの責任と権限の一体化、命令系統の一元化などは殆ど通用していないのが実態である。

 社長の織田はスピード経営ということを社内でよく訓示しており、

「うちの会社がこれだけ急成長しているのは、スピードにあるんだ。大きな会社では物事が決まるまでに二週間や三週間もかかることが普通だが、うちでは数日だ。もし急ぐ案件があったら直接持ってきなさい。私が即決する。このスピードが他社との競合に打ち勝っている大きな要因だということをみんな忘れないように」

と常々話している。

 このスピードについては、早瀬は入社早々洗礼を受けていた。

 入社した翌日、部内朝礼が終わった後、部下となる課長から業務のレクチャーを受けているときにデスクの電話が鳴った。

受話器を取ると、いきなり「早瀬君どうだ、やってるか」という鋭角な声が飛んできた。その言い方から織田社長の声と察した。入社の面接試験の時には社長は無言であったし、入社時に挨拶に伺ったときには「しっかりやってくれ」とだけ言われたが、こうやって直接声をかけられたのははじめてであり、社長から直接電話が入ったことにも驚いた。

「はい、いま竹中課長から業務の内容を聞いているところでした」

「そうか。ちょっと調べてほしいことがあるんだが、君はベンチマーキングって言葉を聞いたことがあるか」

「はい。経営関係の言葉で、本で読んだことがあります」

「そうか。それじゃ、その言葉の意味と手法をちょっとしらべてくれんか」

 かつてのマンモスでは、会社の規模が大きくなってからは社長から社員に直接電話がかかることはなかったし、もしあっても秘書課経由である。また社長からの指示事項については部内で協議して意見を集約して部としての報告書を、段階を踏んで提出するというのが普通であったから、この朝も(二~三日でまとめて部長にみてもらって・・・)と考えていたのである。だから午前中はレクチャーをたっぷりと受けて終わった。

 昼食から早めに帰って席に着くなり電話が鳴った。うまいタイミングだと思って受話器をとると、織田社長であった。

「どうだ、先ほどの件、調べたか」

一瞬、頭の中が真っ白になった。自分勝手にスケジュールを考えていて何も調べていなかった。その上、あいにくと全身の血が胃に集中しているときである。しどろもどろになりながら覚えている限りの知識を動員した。

「はい、エー、ベンチマーキングとは仕事、いや仕事の機能ごとに同じ業界だけでなく、エー、あらゆる業界の中で最も優れている会社と比較していくという意味だと思います」というようなことを辛うじて答えた覚えがある。

「そうか」

「はい、えー、そのやりかたについては調査している最中です」

「そうか、じゃ調べるように」

 冷や汗が額から背中から滝のように落ちているようだった。受話器を置いたあと、あわててネット検索を始めた。大体のことがつかめた。先ほど社長に答えた内容は、ほぼ妥当であり、ほっとした。ついでに部内の資料室も探したがこちらでは何も見つからなかった。三時の休憩までには定義とその手法についてまとめ、ネットで入手したベンチマーキング・ワーキングシートを小売業向けに一部修正してプリントアウトできた。部長に見せて明日にでも提出しようと思っていると、

「どうだ、みんな頑張ってるか」いつもの声のかけ方で織田が入ってきた。

 そしていつものように一瞬室内が静かになり、すぐにあちこちでひそかなガサゴソが始まった。

「どうだ早瀬君、できたか」

(やっててよかった)

 本心からそう思いながら、プリントしたばかりの説明書とワーキングシートを織田に見せた。織田は満足そうに見入って、少し質問したあとペーパーを手にして部屋から出て行ったのである。

 後日、堀が「次長、合格されましたよ」と耳に入れてくれた。

 堀によると新入りの幹部社員には必ず社長から直接電話が入って、課題を指示されるらしい。前の会社で判(ハン)を押すだけの仕事をしていた管理職者の中には、入社したばかりで部下のことがまだわからない状態で課題を与えられると、途方にくれて報告できるまでに数日以上かかることも多いらしい。そうなると「不合格」の烙印がまず押される。それを挽回するのは並大抵ではないとのことだ。その意味で早瀬はラッキーなことに知っているテーマであって、しかも間に合ったことで合格だったらしい。

 スピード重視の姿勢は社内のあらゆる場面で遭遇する。たとえば組織変更はまさに朝令暮改であり、人事異動も内示は直前であるし、内示無しにいきなり発令ということも多い。

 また自分が決裁したことを良く覚えており、その実行が遅いとすぐ指摘を受けるし、きつく叱られることも多々ある。

 このように織田は社内の隅々にまでスピード経営、迅速な仕事を徹底しているのである。