五.社内販売 ②

 さて稟議の話に戻るが、先日も若い部員が社長のサインのある稟議書を掲げて「社長承認済み」と、関係部署をまわり強引に仕事を進めたことがあり、早瀬は当該部署からいやみを言われたものである。

 稟議書というものは時間はかかるがその間、関係部署が中身について具体的な検討を重ね、決裁が降りたときに備えた対応準備や心構えができるというメリットがある。また、万一内容に誤った個所があった場合、関係部署を経ることによってそれが修正されていき、トップのところに回ったときには多面的な審議を経た、より的確な内容となっているものである。

 しかしこのことは起案部署において、「関係部署が重箱の隅をつつくようなあら探しをして」案件が前に進まない、という意識が生じる。だから一番簡単なのは社長指示に基づく稟議であるが、それでも関係部署によっては「社長の真意はこうだから」と修正をかけてくる場合もある。ところがこの若い部員のように「大至急」ということで、起案部署が直接社長に稟議書を持込みサインをもらってくると、関係部署はもはや何の口出しもできないことになる。若い社員がこのあたりの「便利さ」に気づいて社長に「直訴」し、サインをもらったあと関係部署に、まるで水戸黄門の印籠のように掲げて実行を迫ったのである。

 さらに責任と権限といったことについても、まったく不明確である。不明確というより権限は社長一人にあり、他者にはないといったほうが正しいかもしれない。その意味では明確そのものともいえる。

 ただ、権限については外部から何か諭されたとみえて、ある日社長から突然「権限規定を作るように」という指示が出された。秘書室では大急ぎで取引銀行に問い合わせたり、下通りの紀伊国屋書店にとんでいって権限規定の資料を集め、雛型を作り決裁を得た。たとえば代表取締役副社長の支出決裁権限はいくら、総務部長の支出決裁権限は担当業務内容毎にいくらという表である。

 新しくできたその規定を見ると、売上高一千億円の会社の代表取締役副社長の決裁可能額が、なんと十万円であった。しかし十万円とは!という金額の少なさに対する驚きの声は社内では出なかった。なぜならこの会社は織田の個人企業といったところが実態であり、会社の金は自分の金という意識を持っている織田が、わずか十万円といえども身内以外の者に「自由に」使わす権限を与えたことのほうが驚きであったのだ。

 決裁権限規定が定められたその直後、二人いる副社長のうち一人が物品購入稟議書の金額を見て、九万円であったので副社長決裁で購入許可を出した。この副社長はある一部上場大企業から当社のために招聘した大物副社長である。彼は出身企業では常務取締役として億単位の決裁権限を持っていたが、サフィールに入社後これまで単独で支払い決裁はしてこなかった。これは決裁権限が明確でなくすべての稟議書は社長決裁という仕組みの中では、副社長として決裁しても秘書課では当然社長に稟議書を回付していたのを知ったからである。

 それがやっと権限が明確になり、わずか十万円といえども自分の判断で物事が進められることになった。九万円の稟議書を決裁するのは意識的にはまったく遠慮は無かった。

秘書課でも決裁権限規定にもとづく副社長決裁ということでその稟議書は、社長には回付されず一件処理された。

 ところが織田は、支払伝票についてはわずかの金額であっても、たとえ電気代など定例的な支払いであっても全てチェックし、出金承認伝票にサインしているのである。だから、その副社長決裁の出金伝票が織田のところに回ってきたのは当然である。織田は伝票を見るなり顔を真っ赤にして、「誰がこんなの買えといった」と激怒し、秘書課長を叱った。さすがに副社長を呼んで叱ることまではしなかったが、その話はすぐに全社に伝わり、結局その瞬間から権限規定は紙くず同然になったのである。以後は全ての購入稟議書が社長に回付されるようになった。

 

そんなことをぼんやりと考えていると、なぜか突然関係なく淡い恋を思い出した。